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原敬の名前が書かれた芳名帳 |
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盛岡市清水町の多賀金刀比羅神社(山口重法宮司)で3日、大正時代の再建の寄進者に原敬の名前が書かれた芳名帳が見つかった。社殿の中から山口宮司が発見し、当時の神社が広く尊崇を集めた資料として解読を進めている。多賀神社は幕末に焼失して維新後は盛岡八幡宮に合祀されていたが、明治13年(1880年)にもとの場所に再建された。同17年の盛岡大火で再び焼け、大正6年に現在の姿に再々建されている。芳名帳によると同5年から金田一國士らが発起人になって募金を集め、原敬は20円寄せていた。原は大正5、6年当時は政友会総裁。芳名帳にはほかに南部家や大矢馬太郎(衆院議員、盛岡市長)の名前などが見える。
のちに盛岡銀行頭取となる金田一國士ら22人が発起人になった「多賀金刀比羅神社社殿改築之趣意書」は、大正4年12月付で、「盛岡市崇敬者各位殿」あてに募金を呼びかけている。募集期間は大正5年2月3日から1年間。「風雨ノ荒廃に委ネテ唯僅カニ其形跡ヲ遺シ居レリ是亦信徒ノ常ニ憾ミトスル所ナルカ此ノ機ヲ逸セス同ク記念トシテ此二社ヲモ今般改築セラルヘキ社殿内に奉祀し、愈々神明ノ加護ヲ仰キ奉ラントス」と、再建にかける当時の盛岡の気運を伝えている。
その社殿も築後90年近くなって傷みが激しくなり、屋根を修繕する必要に迫られた。山口宮司が「平成の改修」を検討するため社殿の中を整理していたところ、芳名帳の入った箱が出てきた。
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多賀神社と山口宮司 |
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歳月を経た書面をひもとき、「明治は苦悩の時代だったが大正は良い時代になり、何とかしなければならないという気持ちを感じる。中に原敬の名前を見つけて驚いた。そういう人たちもこの神社を敬っていた。清水町だけの神社ではなく、多くの人が拝んできた神社だった」と改めて感じ入っている。
芳名帳には当時の盛岡市、岩手郡などの約350人の名士が記帳しており、募金の目標額は1900円だった。思うように集まらなかったのか、募集期間を大正6年いっぱいに延長するよう当時の大津麟平知事に申請していた。
山口宮司は「無格社だったので財政的には厳しかったのかもしれない。そのころのことを知る人は今は誰もいないだろうが、この神社も屋根が傷んで修理が必要になってきたので昔のことを調べてみたい」と話し、原の名前から神社の由緒に改めて光が当たるよう期待している。
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