2006年 8月6日 (日) 

       

■  〈盛岡百景〉76 中の橋付近の中津川川原と岩手公園の風景

     
  水遊びをする子供たちが見られる中の橋下流の中津川とユリノキが並ぶ芝生広場  
  水遊びをする子供たちが見られる中の橋下流の中津川とユリノキが並ぶ芝生広場  
  杜と水の都と呼ぶように、古くから盛岡は川のある風景とともにあった。南部氏が盛岡に築いた城は北上川と中津川にはさまれたデルタ地帯。今日の街の骨格を築いた約400年前の慶長年間(1596〜1615)の城造り、城下町づくりから盛岡の暮らしは川とともにあった。

  盛岡を代表する川はこれに雫石川を加えた3河川と言えよう。雫石川と中津川は盛岡城跡の南側で北上川の流れに組み込まれ、太平洋まで流れ行く。岩手の母なる川は北上川でも、より多くの盛岡市民にとって最も身近な存在なのは中津川となるのではないか。

  中津川が藩政時代から重要な川だったことは、短い間隔で上の橋、中の橋、下の橋が架橋されていたことからも推察できる。流域の中でも中津川と聞いて多くが思い描く景観は上の橋と下の橋の間になるだろう。

  中の橋下流の河川敷はさまざまなイベント会場に利用され、イベントがなくても四季折々の川辺を楽しむ市民の姿が見られる。特に夏は子供たちが、川岸から降りて涼を取る。都心部で水遊びを楽しめる一級河川があることをもっと誇りにしていい。隣接して芝生広場、岩手公園と、一帯は都心のオアシスだ。

  この辺り、近年まで左岸はコンクリート護岸だった。景観への関心の高まりや親水性への配慮などから石積み護岸に変えられたが、この姿に至る経緯を市民は記憶しておいてほしい。コンクリート護岸になった1960年代後半、市民から反対の声が上がった。これがその後の市の景観行政の方向性をつくった。同時に市民の体内に景観の種を産み落とし、時を経て幾つも萌芽している。

  対岸には古い石積み護岸が残る。治水設備がぜい弱だった時代、盛岡は川のはんらんに何度も見舞われた。昭和初頭まで約20年、市長を務めた北田親氏が就任した1910(明治43)年も就任の3カ月前、中津川が大洪水となり、市長として初期に手がけたのが護岸事業だった。中の橋の架け替えで石積みは高くなったようだが、当時のものと思われる石垣が今も働いている。

  石垣が美しい盛岡城跡の岩手公園に接したこの場所に存在する明治末期と平成の石積み護岸、今は消えたコンクリート護岸を通じ、景観について考えてみてはどうだろう。
(井上忠晴記者)


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