2006年 8月9日 (水) 

       

■  〈たきびの詩人巽聖歌〉255 小川達雄 終章4   

 この世には突然の災害というものがある。昭和二十三年八月二十八日朝七時二十分頃、岩手県庁と道一本を隔てた師範学校女子部用務員室付近から出火、全くの無風状態ではあったものの火の手の回りは早く、本校校舎と県教育研究所、さらに児童文化協会事務局に充てられていた旧付属小校舎を全焼して午前九時十分ころ鎮火した。

  出火と同時に、市消防団からは自動車ポンプ十四台が出動し、岩手・紫波郡下から消防団六百名が応援したが、市中心部の県庁、日赤、裁判所、公会堂等への延焼をくい止めるので精一杯であった。

  ちょうどその時、折悪しく巽先生は東京に出張中である。帰盛して焼け跡に立った先生の胸中は如何ばかりであったか。とりあえず児童文化協会は肴町の川徳デパート二階に移り、それ以降は狭い一室だけの仮住まいが続くことになった。

  その頃、『新樹』の編集発行の場所は川徳デパートである。訪れると、浅沼敏樹さんは眼鏡の顔をあげて迎えて下さり、真岩はま子さんは帯封書きをして『新樹』発送にいそがしい様子であったりした。その宛名の中には、白秋夫人・北原菊子の名もあったと記憶する。

  秋には、農専と工専、師範の大学昇格をめぐり、片や農専は東北大学農学部へ、片や工専と師範は農専を含めた大学への実現を希望して、公開討論会と署名運動をそれぞれ展開していた。公会堂での討論会に農専側を代表したのは、後の建設大臣・総務会長、水野清氏である。

  工専側、農専側の弁士それぞれの一言ごとに応援の声が沸き、工専、師範、農専の学生たちで超満員の公会堂は、双方の熱気で割れんばかりであった。しかし│公平に言って、指を折りながら水野氏の諄々と説く│農専が東北大学農学部に合併したほうが、いっそう工専・師範に充実の機会をもたらす│という論点には、根拠薄弱というか、やはり無理があったように思う。

  その公開討論会の前であったか、わたしが農専の学生として署名を依頼に川徳へ行くと、浅沼さんと真岩さんはすぐに署名して下さったけれども、巽先生だけは、笑いながら、

  「これは三つの学校がいっしょになった
  ほうが、岩手県のためには、ずっといい
  と思うよ」
  と言って、農専側の非なることを諭された。先生には先見の明があったのである。

  署名に出かける前には、その出陣式というのか、農専の講堂で、東北大学農学部への昇格を目指す学生大会があったが、その時、農学科の学生三人が意を決したようすで正面の左手に現れ、地元のためには三つの学校が合同しなければならないことを熱心に説いた。

  その学生たちの誠意と、巽先生の静かな話。これは昭和二十三年の秋の、わたしの心に残る事柄である。

  巽先生はその秋、一家をあげて東京日野町へ、居を移されることになった。 

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします