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■ 延命地蔵尊聖寿寺へ御建立のこと
神鼎院殿侍従利敬(としたか)公御廟の東側に御安置成し置かせらる延命地蔵尊の御事は、御謚(おくり)号常孝院殿と申したてまつる。大膳大夫利敬公の御遺跡にして、南部三十七代御歴世の大樹にて入りなされらる。
実は利敬公御同腹の御妹君、年姫様(御門葉三戸安房信丞君の御内室にて隅御屋敷に御住居なり)の御腹に御出生(文化三年十月五日)遊ばされ、御幼名を三戸駒五郎殿と申すなり。しかるところ、利敬公御前様は松平安芸守重晟侯(安芸・広島藩主)の御女教(みち)姫君、後に御寿号を光樹院殿と申す。
御部屋は重晟侯の御家中安藤鉄五郎が女お秀(後に津嶋丹下の養女に仰せ付けられ春瀬と改名す)。御一子これ無くに付き、右駒五郎様を密かに御養嫡に遊ばせられ、御名を吉次郎様と御改む。御誕生日も御取り替え、文化四年十二月十九日に大奥にて御生誕遊ばされ候つもりをもって、文化九年十二月二十日御国御改めこれあり、公辺(幕府)向きは御妾腹の御実子にて文化十酉年三月七日に御届け。御年八歳(実は御年七歳)、同年十一月七日御嫡子の御届け相済み、御本丸へ入らせられし後に御前様御養の御子様に入りなさせられ、御実名利用(としもち)公と申し、御曹司様と称し奉る。
これによって吉の字を附け居り候は、男女共に名を改め致し候様にとの御沙汰これあり、ただし、吉の字ばかり相改め、何次郎、何次と申すは御構いこれ無し。
文政三年六月、利敬公御卒去遊ばされ、八月晦日御曹司様御朦中御出府遊ばされ候後、銘々心付けをもって何次郎・何次ともに追々名を改む。これによって改めて御沙汰等これ無し。
しかるところ、文政三年辰六月十五日に利敬公には御国にて御卒去。公辺向きには八月九日御卒去のつもりにて同十七日御届け相済み候に付き、御曹司様には八月晦日御朦中御出府遊ばせられ、九月十四日御着府候えども、十五日暁に御着府の段御届書を御差し出し、九月二十四日に御家督首尾よく御こうむり遊ばさる。
十月十五日御家督の御礼は御病気に付き、御名代南部左衛門尉様をもって仰せ上げられ、九月二十四日御家督御こうむり遊ばされ候に付き、御国限り屋形様と称えたてまつり候ところ、十月朔日盛岡にて仰せ出ださる。
翌四年巳九月中御乗出(将軍家に初目見得すること)の御手都合に候ところ、五月ごろ御庭木へ御登り遊ばされ候節、御とりはずし、そのところより御落ち遊ばされ候事これあり。
その後の御足御しげみの様子もこれあり候えども、御歩行御差し支えの訳もこれ無く、八月十五日これより脚気の御模様御座遊ばされ候由にて、御起居御不自由の御様子なりといへども格別の御事にはあらせられず候ところ、同月二十二日暁、御腫れ御升進、暴(にわか)に薨じ玉ふ、この節乗り出し前、その上、御先代様御高増(高二十万石に高直しされたこと)已来、御家格等の御据(すわ)りも今以って御治定これ無き事に候得ば、公辺の聞えも如何にと、至て御穏密に御側(そば)限りにて極密に御入棺あらせられ候処、御腫れこれ有り、常体の御木津(棺)にて中々御入棺御成し難く、御側にて御屋敷内の大工を御呼んで大振りに御あつらえなし二重桐の御木津へ御入棺なり。
右ゆえ、御詰め物格別余計に入れ候由なり、右御側にて御内密御用を仰せ付けられ候大工は昼はもちろん、夜中ともに一寸も御下げ成されず、御賄いを下さる。(「篤焉家訓」)
【解説】
神鼎院殿侍従利敬公の神鼎院殿は、南部家三十六代利敬の法名。利敬は天明二(一七八二)年九月に利正二男として誕生。同四年襲封。寛政八(一七九六)年に従五位下に叙せられ、文化元(一八〇四)年十二月四品に昇進。さらに文化五年十二月侍従となり、高直により十万石から二十万石に増嵩せられた。
この時二十七歳。子供が出来ないという歳でもないのに、三戸安房信丞に嫁いでいた妹・年姫の長男三戸駒五郎を内密に養育。その後、内々に進めていた加賀前田家と駒五郎との縁談が内定した同九年十二月にいたり、駒五郎を吉次郎と改め、妾腹の実子として領内に公表。幕府へは翌十年三月に「丈夫届」を提出した。
この際、「誕生は文化四年十二月十九日。大奥にて出生」と届け出ている。
一連の出来事を理解するために、当時の養子に関する基本的なことを知っておく必要があろう。
まず、養子には多様な養子制度があり、@家督相続を目的とした養子とAその他の目的で養子にするものと二種類に大別される。@はさらに(イ)通常の養子縁組(ロ)婿養子(ハ)弟を兄の養子とする、順養子という(ニ)末期養子(ホ)仮養子(当分養子)(ヘ)心当養子など、後継者がなくて死亡した場合、御家断絶となる武士に特有の制度。
(ニ)の末期養子は、危篤に臨んで慌てて養子願を提出するもので、幕府は当初認めなかったが、改易となった大名の家臣団が多く浪人となり、社会不安を起こす遠因となり、慶安四年(一六五一)に起きた由井正雪の乱を契機に被相続人は五十歳以下十七歳以上の者に限り許されることになった。
(ホ)の仮養子とは大名が参勤交代で帰国に際し、または幕臣が公用で遠方に赴任ないし旅行中に、未だ定まった相続人が不在の場合、万が一江戸に帰着せぬ内に死去した場合の養子願。
(ヘ)の心当養子は、四十歳代の者について、遠隔地旅行ではなく、平常時において万一を考慮して、死亡を条件に願い出て置く制度である。Aについては割愛する。
改めて利敬が提出した丈夫届の意味を考える。実子が居ない現段階で行わなければならない手続きは、病弱であるならば心当養子願を考慮する必要がある。この手当がなされていなければ仮養子の手続きを一年おき、つまり帰国をする都度、定期的に提出していたはずである。
誰を指名していたかは未詳ながら、従来の南部家ではない、国持大名を意識していた節が随所に見られる。利敬には、家安泰のために世子を決定しておく必要があった。それが唐突とも見えるが、(ヘ)の心当養子は年齢制限にはばまれ該当しない。生きおい養子届ではない実子届の提出となったと考えられる。
妾腹実子であれば、七歳前後までに丈夫届けを出すのは、いたって一般的ではあった。この時、諱(いみな)を利用(としもち)とし、七歳を八歳として届けたというが、本文に見える文化三年誕生であれば八歳。別に文化四年誕生説があるとということであろうが、文意が通じない。
次いで松平加賀守斉広の女恒子と婚約。文政三(一八二〇)年六月利敬が病死。その後、九月二十四日襲封のこと。十月十五日督の御礼は御病気を理由に、分家・八戸藩主南部左衛門尉様(信真)が勤めたことなど本文に詳しい。
また続けて翌四年巳九月中乗出(将軍家に初目見得すること)の段取りのところ、五月ごろ庭木へ登り遊んでいたが、けがをしたことに触れ、「足御しげみの様子もこれあり候えども、御歩行御差支えの訳もこれ無く」云々とあるが、八月二十二日暁、急逝したという。行年十六歳、死因は巷間に言われる説に否定的見解である。通常の棺桶に納まらない体格とも見える。南部家存亡に関する一大事。
その遺体を、幕府へ無届けで盛岡まで移送するという荒技をなして聖寿寺に埋葬。公表出来ないため延命地蔵尊と謚(おくりな)され、事情を知っている一部の藩士についてさえも参詣も禁止した。その後の事情は『たけだからくり』や『内史略』后六によれば、加賀の前田家や幕府とも内々に相談があり、直近にあった仙台伊達家との事例を振り合いに黙認された経緯も知られている。その後、常孝院殿従四位下前大官令誠允宗善大居士と謚(おくりな)されたが、石塔は現在も草むらにひっそりと立っている。
身代わりとなった利用は、三戸左近信浄三男、幼名善太郎。先の利用とは父同士が兄弟。叔父信丞の養嗣子となり、駒五郎と改名していた。同年十一月、再度の身代わりとなり、吉次郎で将軍家に初目見得を済ませる。十二月従四位下に叙され大膳大夫を称し、同八年参勤の途次、宇都宮で死去。公称は八月二十日。行年二十三歳。養徳院殿四品前大官令義山宗仁大居士。内室は先の利用と婚約をした恒子。しかし婚礼前であったため前田家との協議により離縁した。
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