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■ 重信公の御逝去
一、重信様御事、井関正伯老御薬御服用のところ、正伯老御辞退に付き、薬師寺宗仙院老御薬成されたき旨、六月九日阿部豊後守様へ若殿様より仰せ入らせられ候ところ、豊後守様より御奉書同然の御頼みに付き、同十日の朝より宗仙院老御薬御服用、少々御快方の由。六月十三日立ちの御飛脚、十九日戌刻盛岡へ来着。この飛脚、十七日殿様七北御泊にて御用状差し上げる
一、宗仙院老にも御辞退、久志本左京殿御頼み御覧候えども、御養生叶いなされず御歳八十七歳、六月十八日辰刻御遠去。これによって江戸より御飛脚、同二十三日酉刻盛岡へ到着。この飛脚六月二十日、殿様御昼休み須賀川にて御用状これ差し上げる。
右の趣聞こしめし、阿部豊後守様よりの御口上書も相達し、これによって須賀川より御帰り、八日ぶりにて二十八日に御帰城すべくこれ遊ばさる旨申し来たり候。右御供のうち九兵衛(家老北可継)並びに中野新五郎・奥寺作左衛門御用仰せ付けられ、直々江戸へまかり登る。
口上の覚え
御同氏大膳大夫殿御病気御養生相叶わず、今朝御死去の段、言語に絶え候。御看病のため御願いに付き参府あるべく、最前奉書を呈し候えども、死去の儀に候間、参府におよばず候。道まで候とも帰城あるべく候。しかしながら江戸近所までまかり越し候わば勝手次第に候。右の通り、各へも申し談じ候故申し達し候已上。
六月十八日 阿部豊後守
南部信濃守様
一、御大法は上方は箱根。東は栗橋。この前にて聞こしなされ候得ば御帰りのはず、越し候て聞こしなされ候えば江戸へ御着のはずの由也。
一、右の御飛脚、二十三日盛岡へ到着、早速御家老桜庭十郎右衛門登城。もっとも高知・御一門・諸士・諸御役人伺公。盛岡は申すにおよばず、在々所々、鳴物高声停止の趣これ触れる。在々は書状をもって申し遣わす。盛岡町中は店を閉ざしおり候也。
一、高知の面々より途中まで、殿様に御機嫌伺、それより江戸へ通り、上々様に伺、御機嫌申すべく由にて、銘々使者を差し登らせ候。南彦八郎・東彦左衛門・北彦野右衛門、この三人は組合使者也。
一、六月二十三日夜御用人足沢彦内途中まで遣わさる。
一、同二十四日御一七日に付き、御斎米三俵、工藤文助をもって聖寿寺へこれ遣わさる。
一、尊骸下りなされ候に付き、御足軽頭足沢彦惣、御長柄奉行高屋四郎左衛門、御徒頭村瀬藤右衛門、御目付石亀弥左衛門、御徒目付佐々木惣七郎、御足軽御小者を差し添え、六月二十四日御登りなしなさる。
一、御葬送場は聖寿寺門前。先ず御普請奉行足軽大将儀俄忠右衛門・戸来又兵衛・下奉行一条弥惣右衛門・赤沢儀兵衛。
一、盛岡中の市日相止める。これは仰せ付けらることこれ無しといえども、所々の者共遠慮つかまつり候由、これによって殿様御帰城前相止める也。以後は市日は申すに及ばず、店をもこれ披き、商売致し候様これ仰せ渡たさる。
一、殿様須賀川より御帰り遊ばされ候ところ、三本木川が高水にて一日御逗留。六月二十八日鬼柳御泊、二十九日石鳥谷御昼休、申の刻大清水川原御掛り、大沢川原より御田屋清水御裏より御新丸へ入りなさる。
一、所々より御悔ならびに御朦気御見廻(舞)の御使者、御飛脚まいる。御馳走下され物等は御目付橋本左兵衛が司(つかさ)也。
一、この末所々より御使者あるいは飛脚来り、繁なる故にこれを略す。
○中田御関所は武総(武蔵・上総)の堺にて、房川舟渡也、武州の岸には栗橋御番所あり
(続きあり『篤焉家訓』)
【解説】本文は、南部家二十九代重信の逝去から葬儀に至る一連の経過を抄録した記録である。
文中の井関正伯老・薬師寺宗仙院老・久志本左京殿は、いずれも幕府から遣わされた御殿医。久志本左京殿が重信の臨終を看取ったことを伝えている。「老」はここでは医師に対する敬称である。
南部家は利直・重直と代々病状悪化の際には、幕府から医師が到来する前例はあったが、ここでも南部家から要請して実現していることが分かる。しかし「御奉書同然の御頼み」つまり内々であるがという意味か、阿部豊後守のはからいによって医師が派遣されたと読める。
それをいえば心当たりがある。重信は将軍綱吉が館林侯と称せられていた当時から信望厚く、その側近後堀田筑前守正俊や阿部豊後守正武らとも綱吉を介して深く親交があった。
堀田氏は綱吉を将軍に擁立した功績によって大老に就いた人物。亡兄重直が養子に迎えた勝直は堀田氏の実弟。重直代に阿部氏からもらい受けた家臣は、かつて綱吉の家臣であったという懇意の間柄。重信が天和三年に高直しにより二万石加増された背景には綱吉の将軍就任と密接な関係にあった(『南部系図』)。
その重信は、薬功の験もなく元禄十五(一七〇二)年六月十八日逝去した。享年八十七歳であった。
隠居重信重病の一報(五月二十五日発病)が盛岡に伝達せられたのは、これより先六月二日のことであった。三日には江戸にて藩主行信の隠居看病のため江戸登につき許可願が提出され、許可が下りるのを見越して各種の準備が進められた。
十五日に許可書が盛岡に到来、行信は即日江戸へ向けて盛岡を出発した。行列が須賀川に到着した所で、重信の逝去を伝える飛脚に出合い、行信はここで帰国の途についた。
「死去の儀に候間、参府におよばず候、(中略)然しながら江戸近所までまかり越し候わば勝手次第に候」と幕府からの奉書が添えられていたからである。
大法(幕府の法令)によれば、西国大名の場合は箱根の関所を、東国大名は栗橋の関所を越えていなければ帰国。越えていれば江戸に入ること勝手次第であった。南部家では歴代藩主は盛岡の聖寿寺、または東禅寺に、内室は江戸の金地院に埋葬するしきたりであった。重信は聖寿寺に埋葬されることが決められ、本文では葬送に向けた準備の様子が見える。
須賀川から立ち帰った行信は、三本木川が増水して一日三本木に逗留。六月二十八日鬼柳泊、二十九日石鳥谷にて昼休みの後、盛岡に到着。通常であれば追手御門または中ノ橋御門から入城のところを、このたびは大清水川原に掛り、大沢川原を廻り「御田屋清水裏より御新丸へ入りなさる」と見える。
葬送のことは次回に詳細があるので、元禄二(一六八九)年頃に幕府の側で成立した諸大名評『土芥寇讎記』に散見する重信像を紹介する。
重信は文武を学ばず、しかれども行跡淳直(すなお)にして、好悪の儀なく、正路にして、あるいは奢(おご)り、あるいは貪(むさぼ)りの意地なし。なるほど穏和なる将にして、慈悲ある故に、家民共に心易(やす)し。いまだ隠居せずといえども、内証は隠居に同じ。諸事構わず、息行信に任すと聞こふ。評に云く、国家を保つほどの人、文武を嗜(たしな)みなくしては、政道正しからじ。されども世間の様躰(たい)を窺(うかが)いみるに、学んで真実なきは、結句生(なま)物知りにて害多きもあり。また学びざれども生得すなおなれば、自然と道に叶ふ人もあり。一遍に論じがたし。この将は、第一正路にして、好悪の念なく、奢り貪る事なきは、学んで実なく不義なるには遙かに増りなり。政道温順なる故に、家民自(おのづ)から心易しと見たり。最も善将と謂(い)ふべし。隠居ならざれども、諸事に構わず息行信に任せらるるも、無欲なる故なり。
註・南部重信 二十七代利直五男、元和二(一六一六)年宮古花輪に生れる。母は花輪内膳女(慈涜院殿)。幼名彦六郎。後、花輪彦左衞門(高七百石)。慶安元(一六四八)年七戸隼人の名跡を相続(二千三百石)、七戸隼人重政と改て七戸に在城。寛文四(一六六四)年兄重直の逝去により太宗を相続。遺跡十万石の内八万石を襲封。残り二万石は弟直房が相続(八戸藩創立)した。時に四十九歳。天和三年高直しにより高十万石となる。『奥南旧指録』は「国家を治め政務専らに仁政を施したまえば、御領内農民万歳を唱いける」と讃えている。
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