2006年 9月10日 (日) 

       

■  山下多恵子さんの本紙連載「忘れな草」が本に 啄木の女性たちを描く 

     
  「啄木は人を愛することができた人」と話す山下多恵子さん  
 
「啄木は人を愛することができた人」と話す山下多恵子さん
 

 啄木をめぐる女性たちに心引かれ、一途に「愛する」啄木の姿に感動、最後は妻節子にたどりついた。雫石町出身で長岡工業高等専門学校非常勤講師の山下多恵子さん(53)=新潟県=が、「忘れな草−啄木の女性たち」(未知谷刊)を発刊した。本紙連載「忘れな草−啄木の女性たち」をまとめ、書き下ろし部分では亡き節子にインタビュー。対話形式で素顔の節子に肉薄した。「節子が乗り移ったのかとも言われた」と笑うが、「石川一を愛した母カツに対し、節子は文学者としての石川啄木を愛し、支えた。節子が日記や書簡を残さなければ、これほどまでに啄木が魅力的に語られることはなかったろう」と話す。

 本書では、53回の連載(2002年2月〜2004年6月)で紹介した堀田秀子、橘智恵子、小奴ら約50人の女性を取り上げた。啄木の目を通して描かれた女性たちを日記、書簡などから立ち上げ、その人間性や啄木との関係に迫った。

  函館の区立弥生尋常小学校時代の同僚・橘智恵子ら女性たちは皆魅力的だったが、「ただひとりの女性を挙げるとすれば」妻節子という。「無口な人、耐えしのんだ人、あるいは“新しい女性”とも言われるが、連載が進むうちにわたしの節子像が変わっていった」

  本書の第2部「節子に聞く」では、「啄木と生きたことを、後悔は?」(筆者)「自分で選んだ道ですもの。あるとしたら…」(節子)など、架空とはいえリアルに一問一答を展開。啄木の友人宮崎郁雨との関係にも言及し、「あなたは宮崎さんと私の間に何かあったと想像しているのですね」と、たしなめられたりもしている。

  「節子は啄木に“焼いてくれ”と言われていた日記も焼くことができなかった。日記には自分のことやほかの女性たちのことも書かれ、読んでいてつらいこともあったろう。しかし啄木の死後から自身が亡くなるまでの1年間、その日記など残すことに全力を注いだ。ここに節子の姿がある」という。

  「14歳で出会い、結婚に反対されても啄木への愛を貫いた。啄木と文学で結ばれた節子の理想は詩人であり、それが啄木であった」と確信する。

  山下さんは雫石町に生まれ、小学校5年まで北海道内を転々として暮らした。同6年から高校卒業まで再び岩手で過ごし、啄木が愛した岩手山を見ながら育ったという。

  高校教諭を経て現職。中学時代からの啄木好き・文学好きから研究を深め、日本近代文学会、国際啄木学会の両会員でもある。啄木研究の一方、「海の蠍(さそり)明石海人と島比呂志 ハンセン病文学の系譜」(2003年・未知谷刊)を著すなど、ハンセン病患者の文学研究でも知られる。
  取材で岡山県の療養所を訪ねたときのこと、「ここの患者さんにも啄木を読んでいる人がいるんですよ」と紹介された。入所して70年というその男性は、「たはむれに母を背負ひて−」と歌をそらんじて見せた。

  「わたしたちが母を思うよりもっと深い、母を慕う気持ち。その思いを重ねられる啄木作品って…」と、思いを強くした。

  啄木と女性たちの関係をつぶさに見詰め、「26年(数え27歳)の生涯でこれほど深く人間関係を築いた人も少ない。啄木は借金や女性関係が話題になることが多いが、人を愛することができた人。個人的にはラブリーな人・かわいい人だったと思う」と話していた。


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