2006年 10月 1日 (日) 

       

■ 企画展「盛岡城と岩手公園」 盛岡市中央公民館で開催中

     
   盛岡城を中心とした絵図。「元文盛岡城下図」(右)は藩が作成した元文3年(1738年)段階の城下図。公用として使用されたもので大沢川原付近が新たに開発されていく江戸時代中ごろの城下の様子がうかがえる  
   盛岡城を中心とした絵図。「元文盛岡城下図」(右)は藩が作成した元文3年(1738年)段階の城下図。公用として使用されたもので大沢川原付近が新たに開発されていく江戸時代中ごろの城下の様子がうかがえる
 

 盛岡市愛宕町の中央公民館郷土資料展示室で、企画展「盛岡城と岩手公園−開園100周年記念」が開かれている。南部家から盛岡市に寄贈され、同館が所蔵している盛岡城を中心とした絵図や南部家所蔵の県との契約文書など初公開の資料も含め78点を展示。盛岡城跡の払い下げや岩手公園開園にかかわる逸話も浮かび上がる。企画にあたった同館の似内啓邦学芸主査は「藩庁であった盛岡城が機能を失い、誰でも訪れることができるような公園に姿を変えた。岩手公園が盛岡城跡であることを改めて理解してもらいたい」と話している。

 岩手公園は1906年(明治39年)9月15日、荒廃していた盛岡城跡を整備し開園した。

  盛岡城は南部氏の藩政時代、南部氏の居城として栄えたが、明治維新、廃藩置県を経て藩庁としての機能を失い、陸軍省の管轄に。お城は一時、保存措置する全国44の城に含まれていたが、老朽化による維持経費の負担ができず、1874年(明治7年)、城内のすべての建造物が民間に払い下げられ取り壊された。

  展示されている「御払下指令書」は1890年(明治23年)3月15日付で県知事石井省一郎から伯爵・南部利恭に出された盛岡城跡地の払い下げ指令書。当初、盛岡城跡は一般競争入札によって払い下げが行われる予定だったが、南部氏の働き掛けもあり、国から7500円で南部氏への縁故払い下げが決まった。

  この指令書に先立って同じ年の2月25日に、盛岡城跡地の払い下げ代金7500円のうち4000円を南部氏が前払いしていたことを示す領収書「代金四千円上納証書」が残っている。当時の7500円は米相場に換算すると現在の約2140万円に相当。南部氏が城跡を取り戻すため、さまざまな手を尽くしていたことがうかがえる。陸軍大臣への依頼書提出など盛岡城跡払い下げの顛末(てんまつ)を詳細に記録した南部家の秘蔵文書なども合わせて展示され、興味深い。

  陸軍省から払い下げのあった1890年(明治23年)3月15日付の盛岡城跡の平面図「盛岡城之図」は、城内の建物解体後、岩手公園の設置工事によって改変、撤去される前の二ノ丸書院の石垣、土塁、堀、階段などの本来の構造が詳細に描かれている貴重な資料。岩手公園を設計した長岡安平(1842〜1925)らは、この図面を下絵にして「岩手縣公園設計図」を作製したという。

  岩手公園は1934年(昭和9年)に県から盛岡市に移管。1937年(昭和12年)に「盛岡城跡」として国の史跡に指定された。1956年(昭和31年)には県の都市計画によって総合公園に位置付けられ史跡、都市公園の2つの機能を持つ公園として現在に引き継がれている。

  似内学芸主査は「公園の名称が話題を集めたが、2つの機能をいかに充実させていくかが問われる。文化財として保存、活用しながら現代的な意義も付加して将来に伝えていく大きな役割がある」と話す。桜山神社周辺の商店街は史跡内で商店が営業している全国的にもまれなケースで、こうした問題の解決も求められるという。

  「都市空間に埋もれた美しい城郭が市内のどこからでも見えるように、公園の本丸、二の丸など、どの位置からでも、盛岡にしかない河川や山並みが眺望できるように、植栽管理や建築制限のあり方についても考える時」と説く。

  企画展は11月23日まで。午前9時〜午後5時。7日午後1時半から解説会。入場料大人150円、高校生100円、小・中学生50円。


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