| |
|
|
| |
 |
|
| |
「魔都の港」 |
|
盛岡市出身で大正時代に日本郵船上海支店長を務めた伊吹山徳司の評伝「魔都の港」を、千葉県船橋市在住の子息で、攻玉社工科短期大名誉学長の伊吹山四郎氏(88)が文芸社から出版した。伊吹山徳司は日本郵船草創期にアジア航路を開き、上海では日本人居留民団長として信望を集めた。かつて「魔都」と呼ばれた租界都市に、世界の海を制する貿易港の造成を構想した。盛岡出身の海運のパイオニアが描いた気宇壮大な夢は、改革開放後の中国に結実し、上海は名実ともに大貿易港に発展している。四郎さんは複雑化した近年の日中関係を憂い、両国に父の事績を広く知ってもらおうと評伝を書いた。
慶応4年(1868年)生まれの伊吹山徳司は仁王小学校を卒業後、知遇を得た田中舘愛橘の薦めで上京。盛岡ゆかりの成立学舎に学んで第一高等中学に進んだ。卒業後は日本郵船に入社し、インドのボンベイ支店長から中国の上海支店長に転じた。
日本郵船は1896年に米欧豪3大航路を開設し、日本は新興の海運国として七つの海に躍り出た。近代日本の大国化はもっぱら軍事力によって達せられたという見方が多いが、徳司のようにあくまで自由貿易による立国を図り、中国のために欧米との調停役を果たそうとするヒューマニティーな経済人がいたことに驚かされる。
1916年(大正5年)に赴いた上海では、軍事力を背景とする西洋列強に支配される「魔都」の実態を目の当たりにした。「中国が富強でないから、中国が列強に対して相互平等の開放を求めることができないのである。隣邦である日本はこれに同情して、これを誘導し、富強の域に進ましむべきである。そしてその手段としてまずその資源開発を助成するのが急務」との結論に達する。日本の対華21カ条要求とそれに伴う中国の抗日運動にも心を痛め、「魔都」を中国人の手に戻すことが最善の道という確信を抱く。
上海の市議会にあたる参事会員となった徳司は、当時の上海に租界を持っていた列強の利害を調整して、「上海大築港計画」を提唱。上海港の改修局評議員会の委員として各国の意見を取りまとめた。盛岡出身で一高の同窓である鹿島精一の仲立ちで、日本の港湾の父となった土木学会会長の広井勇を説得し、上海大築港計画に参画させる。
激務の中で徳司は1919年に52歳で病没するが、広井や欧米のトップレベルの港湾技術者による顧問技師委員会がまとめた上海の築港計画は、その後の国際都市の発展に大きな影響を与え、中華人民共和国の改革開放経済のもとで陽の目を見た。
徳司の四男の四郎さんは父の評伝を書き、「今、日本は中国に嫌われ者のようになっているが、日本人の中でも中国のためになるようなことをした人がいたことを知ってもらいたいと思い本を書いた。上海にいたころは中国が苦しんでいた時代。中国を貧困から救いたいと思い、人道的に中国を救おうとした父がいた」と話す。
伊吹山一族は盛岡時代、仁王小学校の近くに住んでおり、士族から平民になった話を聞かされたという。
「(戊辰戦争の)賊軍ということで大変苦労し、武士の商法で建築関係の仕事をして失敗し、責任を取ったということも聞いた」と話し、維新後の盛岡人の辛苦をばねに世界に雄飛した父の面影をしのんでいる。
四六判307ページ、1500円。問い合わせは文芸社(電話03−5369−2299)
|