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■1975年
僕のアパートは、「美徳荘」というたいそうな名前がついていた。その名前の由来をぜひ聞いてみたいくらい、何の変哲もない安アパートだった。2階建てで、廊下を挟んで2部屋ずつと突き当たりの1部屋で都合5部屋が1階、2階に並んでいた。
僕の部屋は1階の1号室、入り口からすぐ右に面していた。住民はほとんどK大の学生だったが、阪大生(大阪大学)と勤め人が二人ほどいた。
僕の隣の部屋は、K大の後輩で、サンタナ大好きロック青年だった。そしてその向かいには陽水イノチの先輩がいて、ギターに合わせて「氷の世界」を歌っている。
僕はジャズのレコードをかけまくるで、異様な音の空間になっていたが、表面上は仲良くお互いの領域を尊重しあっていた。
ピアノがアパートにきて、その均衡が崩れた。薄い壁1枚を隔てて、暇さえあればドレミファの練習に明け暮れる僕に対抗して、隣のサンタナは、しばらくの間、ステレオのボリュームを以前の倍にして抵抗したが、ついに音(ね)を上げた。
そして、運よく突き当たりの部屋が空いて、彼はそこに移った。それでも僕が先輩のせいか一言も苦情を言わず、時々彼の部屋で音楽談議を繰り返した。
ある日、彼のお気に入りのサンタナ「キャラバンサライ」を聴きながら話をしていると上からドンドンと足を踏み鳴らす音が聞こえた。
上の部屋は、確か阪大生がいたはずだ。うるさいぞという意思表示らしい。まずいなと思っていると、サンタナはなんと、机においてあったステックを思いっきり天井に向かって投げつけたのだった。
「今、上を教育しているところさ」とサンタナは涼しい顔で言った。
陽水の先輩は「おぉ、いいピアノ買(こ)うたやんか。ほならイイ教則本があるからやるわ」といって、わざわざを持ってきてくれた。
こうして、ピアノは美徳荘の中で市民権を得、再び音の領域の均衡ができていった。
しばらくして、かの阪大生が、本当にサンタナフリークになってしまったのには驚いた。以前にもまして仲間意識が強くなり、時折誰かの部屋に集まって宴会がおこなわれた。
ただし僕の隣の部屋は、かなりの間空いたままになっていた。
季節が移り、梅雨に入った。じっとりと汗ばみながら、練習を続けた。スケールが次第につながりだしたころ、「このピアノの元を取らなければ」と思いはじめた。
ベースに対する愛着は、ほとんどなくなっていた。その代わりにピアノの音を注意深く聴くようになった。
バッキングのつけ方、メロディーの弾き方をレコードで聴いたり、BGMで流れている音楽から拾っていった。
どこのバンドでも共通してやる曲を「メモリー」というのだが、それを譜面に書き写して「メモリー帳」を作りながら、そのメロディーの練習をはじめた。その作業はいくらやっても飽きがこなかった。
(ミュージシャン・株式会社ショップボックス代表)毎週木曜日掲載
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