2006年 10月 6日 (金) 

       

■  〈古文書を旅する〉135 工藤利悦 寄合旗本の麹町家を大名にと御願い上げ候    

  ■ 利敬公御末家御願之事
  侍従利敬公には、近年御大家並みに御昇進遊ばされ候に付き、寄合御旗本南部主税様(麹町五千石)御事を御同列(大名の格式を有する)御末家に御願いなされたく思しめしあらせられ候に付き、文政二(一八一九)年己卯十二月御願いの趣き左の通り。

  南部主税殿の御持高五千石へ御蔵米六千石を御足し加え、都合一万千石高になされたき旨の御願書を、当月三日御先手をもって御当番(月番老中のこと)へ御進達なされ候ところ、同七日御屋形(利敬)様へ主税殿御同道にて御登城なされ候様御奉書御到来す。

  翌八日御登城なされ候ところ、御願いの通り一万千石御高並みの通り御奉公相勤め、席(殿中詰め所)の儀は柳間へまかり出ずべく旨、御老中御列席の中、大久保加賀守殿が仰せ渡たされ候趣き、江戸表より申し来り、十二月十六日右の趣き(盛岡城中にて)仰せ出さる。

  一、御願書は御先手奥山主税助様をもって十二月三日、御用番大久保加賀守様へ差し出され左の通り。

  私末家南部主税(麹町家五代信鄰)儀、五千石にて寄合に御座候、右主税先祖は、七代已前南部信濃守行信の弟(南部主税政信)にて、元禄七(一六九四)年に新田五千石を配分つかまつり、その後宝永四(一七〇七)年に新田五千石は相止め、蔵米にて五千石を差し遣わし、今もって血脈相続つかまつり候に付き、主税持高五千石へ蔵米六千石を合力致し、都合一万千石につかまつり、定府にて御奉公、役は分限高並方の通り相勤めなしたく存じ奉り候、この段願い奉り候以上。

   十二月三日        御名
  一、十二月七日御老中様御連名の御奉書が御到来
  御用の儀候間、明八日四時(午前十時頃)南部主税を同道、登城なさるべく候、もしその方病気に候はば一類中より一人名代となし差し出さるべく候候 已上

  なおもって主税儀もし病気候はば、これまた名代を差し出し候様致さるべく候 已上
   十二月七日        大久保加賀守
                水野出羽守
                阿部備中守
                青山下野守
                土井大炊頭
   南部大膳大夫(利敬)殿
  一、文政三(一八二〇)年辰正月仰せ出だされ 主税様旧臘(去年十二月)二十八日御礼 従五位下に叙せられ播磨守となる。

  南部主税殿御事、旧臘御叙爵仰せ蒙むられ、御名播磨守殿と伺の通り仰せ蒙らる旨、江戸表より申来る、御目付奥寺市之丞申達す。
   正月二十一日

  一、麹町御家老に三輪 辺(左司事)、御用人に平澤良作仰せ付けらる(定府仰せ付けらる、文政二年十月二十三日手廻共に出立す)

  一、御上屋敷より麹町への一カ年御仕切り、二千俵と金二千六百七十両余、麹町より公義へ三季御
献上、年始・重陽・歳暮共御時服(ただし、一季御献上入方金四十五両ほどずつ)、御拝領物、紅裏御時服(ただし、一カ年一度ずつ)

  紅裏御時服御拝領は、御家ごとにはこれ無きもの也。麹町にて紅裏を御用いの事、御本家様より古着服の内を指し遣わし、相用いなしたきの旨、公義へ御届けこれあり、御用いし故に御拝領共右の通也  (『篤焉家訓』六之巻)

 【解説】
  南部家三十六代利敬の時に国持大名の列に昇進し、同列他家との振り合い(釣り合い)から大名並み(一万石以上)の家格を有する末家を考え、内々に幕閣へ相談の末、これまで旗本として仕えていた麹町家を大名に取り立てることとなった。屋敷が江戸麹町にあり、在名により麹町家と称せられた。

  ここでは、大名に取り立てられるために必要とされた、登城するに当たっての老中奉書、本家から派遣された重役および本家からの仕送り金、幕府への献上品および拝領品について記述している。

  少し立ち入ると、文政二(一八一九)年十二月に提出した内願の内容は、これまでの高五千石に蔵米六千石を加算、表向きの石高を都合一万千石高にしたいとするもの。

  当月三日、御先手奥山主税助をもって月番老中へ上申、同七日屋形(利敬)へ主税を御同道の上「御登城なされ候様御奉書御到来す」と見える。ここで知られることは、諸大名は幕府へ上申する場合、内々には贔屓(ひいき)の老中に話を付けて事を運んでいるのが実態だが、表向きには贔屓の御先手を介して執り行うことになっていたことである。

  かくして翌八日江戸城に登城。御願の通り一万千石御高並み(内分)で大名の処遇を申し渡され、殿中詰め所は柳間とされた。

  内分とは本家の領分の内に末家を分け、本家は全高の名義を保有すること。具体的には本家の二十万石の中に包括して一万千石を配分する。八戸藩のように分割の形は取らない。

  明治政府の見解を借用するならば、公議所日誌・五・明治二年四月「自今末家へは御判物を賜ふを許さず、宗家の禄高を内分し云々」に通じる。

  柳間とは殿中大広間の北にあり、襖に狩野洞雲の筆になる雪の柳が画かれた四十八畳敷の間。表(外様)大名四品以下、表高家などの詰め所である。当時本家南部家は大広間を詰め所としていた。

  蛇足ながら大広間には国持大名、御三家の庶流、及び表大名四品以上の大名が詰め、上(二十四畳)・中(三十二畳)・下(三十九畳)の三段に分かれ、襖に松鶴・松雪、及び松を。二の間(六十三畳)、三の間(六十畳)、四の間(八十八畳、下に半六畳後の間七十四畳半)の小壁には牡丹の絵が画かれていたという。

  天保六(一六三八)年の大広間詰の諸家は陸奥仙台伊達、肥後熊本細川、筑前福岡黒田、安芸広島浅野、長門萩毛利、肥前佐賀鍋島、伊勢津藤堂、備前岡山池田、阿波徳島蜂須賀、筑後久留米有馬、出羽久保田佐竹、土佐高知山内、陸奥盛岡南部、出雲松江松平、出羽米沢上杉、武蔵川越松平、陸奥二本松丹羽、越中富山前田、加賀大聖寺前田、伊豫宇和島伊達、陸奥弘前津軽、播磨明石松平、長門府中毛利、美濃高須松平、伊予西条松平、陸奥守山松平、対馬府中宗等の諸家。

  遅れて十二月二十八日、従五位下播磨守に叙任せられた。
  ■麹町家の由緒
  初代南部主税政信は南部大膳大夫重信の二男。はじめ元禄七(一六九四)年に兄行信より村崎野村(北上市)、浄法寺村(二戸市・浄法寺通代官所が浄法寺に設置された)の内に五千石を内分して幕府に仕え旗本に列せられた。宝永三(一七〇六)年采地を改めて、現米五千石を内分されることとなった。享保十七(一七三二)年に隠居、延享三(一七四六)年死去した。

  その跡を牧野河内守英成の五男信弥(主殿、主税)−利視の三男主税信伝−信喜(主税、肥前守)と相続。寛政八(一七九六)年には小性番組の番頭に進み、同年世子徳川家慶に附属して西の丸に勤め、従五位下肥前守に叙任。同十一年本丸に勤め、翌十二年死去した。
  『よしの冊子』に「疳積持ちの由、寄合からは百人頭か火消かに相なる処、小普請支配に相なり候はあまり結構過ぎると申すサタ云々」とした出世ぶりの評が見える。その跡を信鄰(主税、播磨守)が相続。文政二(一八一九)年諸侯に列せられたことは本文の通り。同三年本家利用が幼少で家督のため、盛岡に移り国政・蝦夷地警衛の後見役を務め同四年盛岡で死去した。

  その跡を文政五年に信誉(丹波守)が相続。同十三年本家利済が江戸にて病に臥し、名代として盛岡・六日丁本陣に滞留し、国政・蝦夷地警衛に関して後見役を勤めた。安政五(一八五八)年城主格に昇格、文久二(一八六二)年死去した。

  その跡を南部左近信也の本家四男信民(美作守)が襲封。同三年には利剛の名代として京都内裏の守備を勤めた。明治元(一八六八)年奥羽列藩同盟に加盟した罪により千石を削られて残高一万三百八十四石余とされ隠居。この時初めて領知を北郡のうちに定められた。

  同二年にその跡を利剛の三男雄麿信方が養嗣子となり、明治二年に家督、七戸藩主となった。同年藩籍を奉還して七戸藩知事となり、三日後に辞任、隠居信民が再び立ってその跡を継いだ。同九年米国に留学、帰国してのち、同十七年子爵を授けられた。その跡を鍋島直第の三男孝三郎信孝−伊賀氏広の二男信俊と相続。当主治氏に至る。



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