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昨年に次いで今年も盛岡城址(じょうし)の周りを巡る馬車運行の社会実験が始まった。車社会になって過去のものと思われていた馬車を盛岡の真ん中でいつでも見られるのは、大変楽しいことたし、ぜひ実験は成功してもらいたい。
よく知られていることだが、わが国では、古墳時代から江戸時代まで馬は律義にも乗用や荷駄を運ぶことだけに利用され、なぜか馬車の活用という発想は全くなかった。結局馬車の実用化には明治の文明開化を待たなければならなかった。ただ、動物に引かせる乗物としては、平安時代の源氏物語絵巻に見られるように「牛車」が利用されていたし、藤原三代の平泉でも牛車が往来していたようだ。だが、平安時代のころの中国や朝鮮ではすでに「安車(あんしゃ)」という馬車が盛行していたという。それなのにわが国では明治まで、人の乗る車としては牛車だけが幅を利かせ、あまつさえ江戸時代に至っては人力に頼る不便極まる「駕龍(かご)」が最も重要な人の運搬手段になっていたことは、今考えれば噴飯ものでもある。馬は牛よりも先に中国や朝鮮から移入され飼育され、しかも乗用馬としては大変活躍していたことからするとどうも解せない。
かつて、横浜の「馬の博物館」を見学に訪れた時、秦の始皇帝が不老不死の薬を求めて東方に旅をしたという四頭立ての馬車のレプリカを見たことがあるが、中国ではすでに二千年以上も前に立派な馬車が存在していたことに一驚したものだ。また、古代エジプトの有名なツタンカーメン王の遺物には黄金のマスクだけではなく、儀式用の二輪の馬車(戦車)が残っているという。実は、この10月1日まで県民会館で開かれていたドイツのヒルデスハイム博物館所蔵の古代エジプト展の展示品にこの戦車や当時の馬車を刻んだメナン王やテーベ王のレリーフが見られないかと期待したのだが、どうやらこれらはエジプト博物館の所蔵らしく、今回は残念ながら見ることができなかった。
手先が器用で外国の文物を模倣し独自の文化を創り出す能力に優れた日本人が、一番手近な運搬手段の馬車を明治まで発明しなかったのには、いろいろな原因や理由があるらしいが、もっともらしい理由に、日本の地勢や気候とか道路や橋の建設に手が届かなかった貧しい経済力があげられている。しかし、それならば構造や規模もおなじような牛車が都大路や平泉をかっ歩していたことなどの説明がつかず、納得がいかない。
明治になって急速に全国に普及した馬車のなかでもちょっと特異なものに競馬用の馬車がある。明治36年に開設された岩手競馬のプログラムに「繋駕(けいが)速歩競争」というのが見受けられる。これに使われた「繋駕競争用馬車」が競馬組合に保存されているらしいが、「岩手の競馬史」には昭和42年わが国初のプロの女性騎手となった高橋クニさんがこの二輪馬車で疾駆している勇姿が載っている。
この馬車は、古代ギリシャやローマで人々を熱狂させた戦車競争を彷彿とさせる。ただ、日本の馬車は轅(ながえ)が二本で一頭立てだが、ギリシャやローマは轅は一本で2頭立て以上だったようだ。いずれ世界の馬車の歴史の古さとその伝統がいまだ脈々と残っていることには驚くほかはない。ところで、最近県内では遠野市でも馬車運行のイベントが計画されているという。このように各地での盛り上がりを機運として、今後一層深刻化する過疎地やへき地の「交通弱者対策」のためにも、ひいては新しい「馬事文化の創造」のためにも馬と馬車の活用が一段と望まれる。
(盛岡市つつじ丘)
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