2006年 11月 3日 (金) 

       

■ 〈古文書を旅する〉139 工藤利悦 盛岡領内の温泉をつぶさに調べ報告するように

  ■ 湯治御暇のこと
  ○明和六年八月二十三日
  一、七戸矢萩へ湯治御暇、以来仰せ付けられず候条、願い取り次ぎ申すまじく旨仰せ出され候事
 
  ○安永四年四月二十九日
  一、御留守居吉田安兵衛・奥瀬伊右衞門儀、御用透しを見合い、豆州(伊豆国・静岡県)熱海温泉へ入湯二廻りずつの御暇下し置かせられたき旨申し上げ、願いの通り仰せ出され候事
  同八月二十一日
  一、常府尾崎熊太郎親隠居恕林儀病気に付き、豆州熱海温泉へ入湯三廻の御暇を願いの通り仰せ付れ候事
 
  ○ 安永六年九月七日
  一、北監物殿痛所これあり、折々差し発候趣き御承知遊ばされ、湯治つかまつり候はば、しかるべしと思し召し候、これに依って田名部下風呂へ御暇下し置かせられ候間、医師へも相応の様子承り合いまかり越し、後々入湯つかまつり候、もっとも同氏左衛門儀召し連れまかり越し申すべく候事
  同九月二十六日
  一、嘉兵衛嫡子鳥谷部周治、鴬宿へ入湯三廻りの外、御暇願い上げ候に付き、御目付相談伺書を差し出し候事
 
  ○ 安永七年三月二十七日
  一、御側御用人奥瀬伊右衞門、痛所これある趣、御承知遊ばされ候に付き、養生のため田名部下風呂へ湯治御暇下し置かせらる旨仰せ出だされ候事
 
  ○ 安永八年三月二十二日
  一、左京殿、田名部下風呂へ湯治成されたき旨御伺仰せ上げられ候処、就て仰せ付られ候、来月七日御出立成され候段、御役人口上書を差し出し候事
  (「篤焉家訓」)

 【解説】
 
  時の政府が「ふるさと創生」を提唱。さすが火山立国だけあり、すかさず津々浦々に温泉試掘が始まり、温泉が林立したのは昭和六十二年のことであった。

  昨今では「かけ流し」や「循環式」といった温泉用語が造語され、はたまた入浴剤を混入する「マガイの温泉」まで話題になる温泉ブームである。

  ここに紹介するのは、前回の参詣暇に続く、湯治暇に関する記録である。

  藩政時代、盛岡領内にどれ程の温泉があったのだろうか。『御家被仰出』によれば、延享元(一七四四)年六月、「御領分湯坪書上させ候様仰せ出ださる」として、著名な温泉から土地の者のみが入湯している温泉まで、大小洩らさず、立地は平地か澤目か、湯坪の数、大きさ、藩境に隣接する場合は境目までの距離など、詳細を究める内容の書上を命じている。

  次いで同年七月にも湯治した者を対象に、その温泉の効能の良否など尋ねた調書の提出を申し渡しているのだが、これを取りまとめた記録は散逸し、現在見ることが出来ないのは残念である。

  一方『邦内郷村志』は主な温泉を次のように取りまとめている。(要旨)

  【寺林通台温泉】瀧湯・上湯・中湯・鉢湯・筥湯があり、入湯者は貴賤老少の別なく、遠近から群集して賑わい、高貴の人達が訪れる温泉の一つである。(泉質等は割愛、以下同じ)

  【万丁目通志戸ヶ平温泉】花巻の貴賤多く浴す。

  【沢内通湯田温泉】田中湯・岩根湯・岩中湯・泥湯・湯賀湯の五カ所および走湯温泉があり、春秋には羽州横手の四民来浴、年中二千人に上る。

  【鬼柳通夏油湯】夏秋になれば、仙台・秋田領の四民年々群行、浴湯者日々数百人。封内の者は和賀稗貫の者が浴す。

  【雫石通温泉】鴬宿湯・繋湯・国見湯・綱敷湯があり、鴬宿湯は城府のほか遠近、他封の浴者絶えず。また、高貴の人達が訪れる温泉の一つである。繋湯は四時浴者絶えず。国見湯は城府より甚だ遠く行く者はないが、羽州近郡の者が多く入湯。綱敷湯は杣人が多く入湯している。

  【沼宮内通松川湯】名湯であるが、城府より甚だ遠く、金瘡の者達が皆浴。

  【福岡通温湯(ぬるゆ・金田一温泉)】は浴者少し。

  【野辺地通馬門湯】津軽領の庶民が多く入湯。

  【田名部通温泉】天下無双・温泉・名湯とし、このうち、薬師湯は恐山への参詣者が入湯。薬研湯は牛馬不通、常人は浴しがたし。下風呂湯・下風呂新湯は春秋の間、遠く松前・津軽・秋田から来浴、大いに験あり。

  【毛馬内通大湯】城府より三日の行程であり、来湯の者は少ないが、秋田近隣の庶民が絶えない。

  【花輪通温泉】湯瀬温泉は春秋、遠近の庶民多く来浴。熊沢温泉(八幡平ふけの湯温泉)は当時の『香川薬選』という書物にも見える名湯とし、惜しいかな山中幽谷、悠遠にして浴舎なく、雨風を覆う宿あるのみとある。

  無味乾燥ではあるが、これが盛岡藩の主な温泉と見て良いのであろう。総じて温泉は保養・治療の場所であった。しかし良識の御仁から見るならば、いかにもいかがわしいたぐいの温泉場もあった様子である。

  山本縁増補『盛岡砂子』畳石の項に「この先、暫く行く、ブナト(盛岡市川目福名湯)と云う温泉場あり、東閉伊郡宮古街道なり」とある。

  この温泉に関連して左官職紋平という者の咄(はなし)が『塵袋』に収められている。紋平は気風の良い名人気質の左官。安永(一七七八)七年の盛岡大火により焼亡した家屋の再建に従事して一時の御大尽となり、武名戸に出向き、大盤振舞の末すべて使い果たしたという他愛のない内容であるが、歓楽地であったらしい。

  さる御仁の目から見るならば、「本来温泉は保養・治療をなす処。しかるにこの温泉には見せ物小屋などもありいかがわしい。ばくち打ちその外わるものの住家にて候。これを取り去るのも善政の一つにてこれ有るべく候」(『たとえば』)とする意見である。しかし、主題である湯治に関して庶民に対する規制は見えない。湯治御暇のこととは、士分およびその奉公人と称される人たちにのみ義務づけられていたことが知られる。

  歴代藩主の中で湯治に関連した最も古い記録は、信直から八戸家に嫁した娘千代子宛の書翰中(六月廿五日付)にあるが、寛永二十一年十月に重直が底倉温泉(静岡県)へ出向いた事について「底倉へ御湯治の御暇出る」(『書留』)にみえる。

  安永三年、利雄の世子利謹が廃嫡になる直前のことであるが、『内史略』后五に「信濃守利謹公御持病持疾に付、御在所御湯治御願、同月十八日願の通仰せ付けらる旨、御用番松平右京大夫殿仰せ渡され、同九月三日江戸御発駕、同十六日森岡下の御屋敷へ御着住居云々」とある。その他事例は多くあるが、大名、同世子をはじめ諸士が湯治のため江戸を離れる場合には、将軍家に対して御暇の許可が必要であったことが垣間見える。当然藩士は藩主の許可を必要としたことはうなずける。

  具体的暇願いの詳細は、割愛するが規定では入湯二廻(ふたまわ)りが原則、最初より三廻りの願い出は認めないとされ、三廻り以上を要する場合は追願によっていた。そのことから見るならば、本文に見える尾崎恕林・鳥谷部周治の三廻りは異例のことであったと知られる。

  天保十一年の御役御金銭御元并御遣払(『内史略』后十八)によれば、『邦内郷村志』と必ずしも整合性はとれていないようだが、温泉御礼銭(金)を賦課している代官所は、奥羽山脈を管内に有する八幡寺林通・二子万丁目通・雫石通・沼宮内通・野辺地通の各代官所の外、湯守御礼金を賦課する花輪通があり、先に見た熊沢温泉を一例とするならば、「寛永年中六郎治立初、寛文元年より御礼金一歩宛六郎治差上」と(『古今萬覚鑑』)ある。

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