2006年 11月 19日 (日) 

       

■ 〈盛岡百景〉90 寺の下かいわい

     
  川鉄商店、青龍水、大慈寺辺りの昔ながらの路地  
 
川鉄商店、青龍水、大慈寺辺りの昔ながらの路地
 
  城下町盛岡には2地区の代表的な寺院群がある。江戸時代の盛岡藩主、南部氏によるまちづくりで形成された配置を今日に踏襲している。一方は北山寺院群であり、一方が寺の下寺院群。いずれも境内に大木が葉を繁らす寺が多く、周辺は特に第2次世界大戦後、さま変わりしていったが、市街地化の中で貴重な緑をたたえている。

  両寺院群地区とも、盛岡市自然環境及び歴史的環境保全条例に基づき、環境保全地区に指定されている。環境保全地区は住民の保健や休養のため、あるいは都市景観上で保護する必要があると認められた環境にある緑地。神社や寺院は都市化の波の中でも、変化から比較的逃れられてきた。そのせいもあって天然記念物や保存樹木に指定されている木も見かける。

  1884(明治17)年11月4日午後2時30分ごろ、中津川と北上川の合流点近くの馬場小路にあった県監獄署から火の手が揚がった。出火時は西風が激しく付近に類焼。中津川左岸側の河南地区をほとんど焼き尽くし、5日午前2時になってようやく鎮火する希有の被災だったという。

  盛岡大火災類焼の記録によれば、被災は鷹匠小路・馬場小路が38戸、上衆小路が10戸、六日町が144戸、馬町が153戸、十三日町が135戸、穀町が87戸、新穀町が113戸、肴町が117戸、呉服町が9戸、餌差小路が45戸、小人町が3戸、生姜町が112戸、八幡町・八幡片原が324戸、寺ノ下通・大慈寺前が58戸、志家村が36戸、新庄村が48戸の家、ほかに土蔵46棟の土蔵が焼けた。

  1400戸を超える家だけでなく、6神社と10寺院、3学校などを焼失したという。この火事では、新穀町にあった木津屋と糸治が防火対策の優れた、うだつのある漆喰(しっくい)土蔵造りの建物で類焼抑止に機能したと言われている。

  寺の下地区の被災寺でよく知られているのは大慈寺。しばらく末寺を仮本堂としていたが、原敬が大金を出すなど檀家の寄進により1904年に山門が改築され、19年に本堂が再建された。

  建物だけでなく、寺の木々にも大きな被害が出たに違いない。大火災から120年を超え、火災を生き延びた古木、そして被災後に成長した大木らがつくり出す緑。被災から立ち直ったありがたみを忘れずに継承し、木々の恩恵に甘えたいものだ。

(井上忠晴記者)

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