■ 〈古文書を旅する〉143 工藤利悦 得道具持ち、間者を新規召し抱え
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■ 元文中御得道具持ち・間の者新規召し抱えらる事
利視公元文五(一七三八)庚申年三月、御得道具持ち・間の者、新規に御抱え、その節は頭と定まり申す方これ無く、御側懸りなり。のち利雄公の御代に至り、御勘定頭御側兼坂牛新五左衛門組に仰せ付けられ、この節御得道具の者ども格合よく、御徒並みの様に召しつかわれ、諸方へ相回り、格別に勤め方よろしくこれあり候ところ、右新五左衛門御役取り上げの後、格合なく、元の通りに相なる。頭これなく牛馬目付支配に仰せ付けらる。
一、八駄二人扶持 松本五右衞門
一、六駄二人扶持 一方井喜兵衛
一、八駄二人扶持 太田半右衞門
一、七駄二人扶持 平塚左源治
一、六駄二人扶持 宮川幸右衞門
一、五駄二人扶持 隅田川文治
一、五駄二人扶持 柴内甚右衞門
一、五駄二人扶持 飯岡権太郎
一、五駄二人扶持 川守田弥七
一、五駄二人扶持 上田重太朗
一、五駄二人扶持 玉川波之丞
一、五駄二人扶持 大里要太夫
一、五駄二人扶持 〓嶋長兵衛
○ 利雄公御代、宝暦三(一七五三)年十二月二十六日御得道具の者六人、間の者五人へ仰せ渡され、御側御用人御供目付組に仰せ付けられ置き候処、このたび御目付組に仰せ付けられ候、もっとも御持筒の者・御持弓の者次座に仰せ付けられ、御遣し方の儀は只今までの通りとは違い、段々相応に御遣しなされ候間、この旨を申し渡し候事。
○ 御側勤め通りの内、御持道具頭と申す名目これなく、その後安永四(一七七五)年六月十日神尾保右衞門・松岡三十郎が御得道具頭に仰せ付けられ、御目付格にて勤む。
○ 御勘定頭坂牛新五左衛門は宝暦十一(一七六一)年五月十六日に寺社御町奉行御勘定頭兼帯を仰せ付けられ、もっとも御供目付御得道具頭奥使共、ただ今までの通り兼帯相勤め候に及ばず、加印はつかまつり候様に仰せ出ださる。
○ 同人は明和三(一七六六)年三月十五日に御側御用人御勝手御用人兼帯を仰せ付けられ、同六(一七六九)年六月花巻御郡代を仰せ付けられ、同年九月十六日無調法これあり、中野吉兵衛へ御預け。
○ 「古事録」明和七年二月九日、御得道具の者、ただ今まで御側にて取り扱い仰せ付けられ置き候ところ、向後は表(おもて)取り扱いに仰せ付けられ、もっとも御持弓上座に仰せ付けられ、別紙書付けをもって仰せ出ださる。御得道具持下座の儀は高知並びに御目付以上の御役人へ下座つかまつり候様申し付けべく事、ただし奥使・御側は勤め方の差し図を得候御役筋故、下座同様につかまつるべく候、すべて諸士へ対し無礼これ無きの様に申し含むべく事、外は御使方共に仰せ付けらる事
『篤焉家訓』八之巻
【解説】
得道具(えどうぐ)とは、盛岡藩の軍役之定(寛文四・一六六四・年五月制定)に「壱騎にてこれ無き者、弓・鉄炮・鑓、何れにても得道具、持たせたく候」とあるように、自分が得意とする道具(武器)のこと。
盛岡藩で得道具持とは中使(なかつかい)の次席に位する下級藩士。明治元年の支配帳によれば、当時諸番御小人の名目となり、八駄二人扶持の松本氏を筆頭にして八駄二人扶持(高にして二十八石)二人、七駄二人扶持(同二十六石)一人、六駄二人扶持(同二十四石)五人、五駄二人扶持(同二十二石)六人、四駄二人扶持(同二十石)一人。総勢十五人。
ここではその得道具持ちと称する組・集団の変遷概史である。
だが、本文では元文五(一七三八)年三月に、諸士の二三男を中心として人材を選出し、得道具持の集団を編成したのが嚆矢(こうし)と伝えるものの、『雑書』によれば、元文二(一七三五)年八月二十一日に御相撲・二所関軍之丞が「御得道具持と名目を仰せ付けられ候旨、御側御用人より御目付へこれを申し聞せる」(『御役被仰付之類』)とあるのが御得道具持の初見(刊本『雑書』に「得」が「湯」となり、御湯道具持とあるのは誤植か)。
その後同四年七月に相撲隅田川今之丞、同八月に上田庄太夫、御持筒富澤与右衞門、同大里又兵衛等が五月雨的に任用されており、若干『篤焉家訓』編者の誤解があることを指摘し話を先に進める。
何れにしても、当初、御側御用人の持役とされて専任の得道具持頭は存在しなかったらしく、役向きについては「御得道具御用を相勤めべくもの」とあるほか、後年の『御家軍制』によれば、戦時の御小人頭の任務は「諸番御小人十七人預の御得道具持なり。(御大将の)御床几廻りに随従し、時により獲物を御渡し・御遣方もこれ有る事」。
御小人には「傘(笠)印は絹半幅、長さ九寸、赤地白の二引龍、同菱。陣羽織は黄背の菱輪。具足は胸押し付け、金菱輪御印これ有る事」とあり、藩主の身辺警護が本来の任務。名は体を顕わすというから武術上で一芸を有した者からなる集団であったことが想定される。
その後宝暦十一(一七六一)年五月に御勘定頭御側兼帯(簡単に云えば兼務)の坂牛新五左衛門が得道具頭となるに及んで一転したと見られる。
藩は得道具持衆の身辺一切は「組法にかかわらず取りはからい申すべく候」と坂牛新五左衛門に一任(『御役被仰付之類』)。同十四年三月には「諸方へ相廻り、格別に勤め方宜しくこれ有り」と本文が伝えるように、明和八(一七七一)年に御得道具持権太郎および御持弓與平次の両人が、弓細工の技術習得を命ぜられて江戸弓町の弓谷伊右衛門方へ入門(『御家被仰出』)は特殊な事例としても、通常は風の強い日には城下の火の元吟味。もし回り先で出火があれば往来に居る人々を動員して初期消火に当たること。もっぱら火元用心のために昼夜両人で手分けをして回勤することとされ、治安のためには、花見・遊山の場所等へも出向き、御小納戸支配御職人などを見懸けた時には名元を確かめ御側まで御内々に申上ける事。
町々の自身番所を廻り夜札改を行い、面を隠しる者等があれば身元確認をすることなどを任務(『御家被仰出』明和三年四月)としていたほか、穀物が他領へ出ることの監視や粗悪な新銭の入来を阻止を任務として同心を添えられ、他領境および遠野・大迫に派遣(『御家被仰出』明和九年六月)などが見える。
しかし、坂牛氏が失脚後は、得道具持衆を統括する所管が定まらず、得道具持衆の処遇も失墜する。
文化九(一八一二)年十一月には名称も「諸番御小人(おこびと)」と改称。再び御用人支配となり、勤務地は江戸(江戸表え壱ケ年四人宛為登候事)と盛岡に二分され、江戸の任務は藩主家族の外出に際してのお供のほか、内玄関御番の手伝・御使者給仕の手伝・進物番。藩主が帰国中は東御門番。一方、盛岡での勤務は、城内淡路丸御番・諸普請の立番・高知へ上使が立ち、下され物がある時には附添え、藩主居間通りの掃除、藩士登城の際には、供方の者の玄関や門へ立ち寄りを監視・その他が定められた。『増補国統年表』は「この称軽く思し召して也」と説いている。
諸士の場合家督相続により家名を継承したが、御徒等は跡職を継ぐという形式を採り、得道具持等の場合、跡組に召し抱えるとして形式的に相続はみとめられていない。
創設当初、十一人で始められた得道具持は何処に居住していたのだろうか。宝暦十(一七六〇)年に四人の増員に当たり一條小藤治拝領地及び自光坊屋敷の一部を以って屋敷地を造成された(『御家被仰出』)。嘉永六(一八五三)年大澤川原に御殿を造営した際、諸士を住吉社前から内加賀野丁まで新道を通し移転させた。
その時の様子を「田の中真直御得道具丁より外加賀野丁へ向て 堀端真直四木形にして住吉前より真中六間の道幅を通す云々」等を散見(『内史略』)、ここに見える御得道具丁は、現在の中の橋一丁目の一部および神明町の一部で、明治初年には小人丁と改称され散見する一郭。中三デパート脇のタクシー駐車場から、工藤内科医院前を経て市役所若園町分庁舎前に通じる小路名である。大正初年に山本縁が増補した『盛岡砂子』には「廃藩置県後、それぞれ身を片付けその跡絶えて地処銘々売り払いて一人も居らず皆他人の宅地となし也」と見える。
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