2006年 12月7日 (木) 

       

■  〈あのころぼくはバンドマンだった〉28 北島貞紀 ある朝、突然、嫌になった

 ■1977年

  「サンチカで出会って、お買い物…」チェリッシュの歌うテーマソングが流れる。

  「もうすぐサンチカタウン開店の時間です。みなさんご準備はいかがですか」店内放送が流れて一日が始まる。朝10時「サンチカタウン、開店でございます」

  昨日と同じきょうが始まった。

  JRで言えば神戸駅で、阪急、阪神では「三宮駅」、地元の人にとっては「三宮」が通りがよく、三宮の地下だから「サンチカタウン」だった。その中の「レディーズタウン」の一角が僕の職場で、ウチのようなカジュアル系から、高級ブランドまで同業各社がひしめき合っていた。

  僕らは将来の幹部候補として、店に立ち接客をするのだが、その先に見えるのは「店長」か、バイヤー(商品仕入れ)で、僕は早々に投げ出してしまった。1時間の昼休みに、電車に乗って須磨海岸に行ったり、ちょっと有名な市役所の噴水を眺めたりしていた。

  それでも阪急電車を乗り継いで1時間半もの通勤を続けたのは、本当にしたいことは何なのかを模索していたことと水谷店長が好きだったからだ。

  水谷店長は、布施明をちょっと小柄にしてメガネをかけた風ぼうで、とてもダンディーだった。売り場の女の子のファンもたくさんいたが、気取りもテライもなかった。会社の創成期のメンバーで、といっても30を少し出たばかりなのだが、みんなが一目置いていた。本来ならば本社の役職級なのに本流を外れていた。訳ありに違いないが、淡々と日常業務をこなして、そのたたずまいが、なんとも美しかった。

  午後3時になると「ミーティング」といって二人でお茶を飲みに行くのが日課だった。僕は自分の気持ちや疑問をストレートに吐露したが、分別くさい教訓や説教は一切なく、かといって突き放すでもなく、その距離感がとても居心地良かった。

  11月に入ったある朝突然に、通勤電車に乗るのが嫌になった。1時間半もかけて通勤するのは時間の浪費、人生の無駄遣いに思えた。きょうもあすも、そして永遠に続く通勤に嫌悪と恐怖を感じた。もう限界だった。

  「そうか、辞めるか、寂しくなるな」。辞表を受けとると、水谷店長はポツリと言った。

  そのとき僕は、水谷店長と共有していたものがあることに気づいた。会社組織との違和感、あるいは、会社に未来を託さない疎外感、それをお互いの中に感じ取っていたのだ。

  12月10日付で僕は退社した。その日まで延ばしたのは、水谷店長のアドバイスで、ボーナスの支給があったからだ。9カ月間のサラリーマン生活だった。

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