■ 〈胡堂の父からの手紙〉89 八重嶋勲 時は十方に暮れた思いである
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■139巻紙 明治37年3月14日付
宛 東京市麹町区台町十九 三洲舘
発 岩手県紫波郡彦部村大巻
徴兵猶豫至急可差出候
前略無事勤学之由大慶ニ存候、次ニ当方無事相凌キ居候
本年之入学如何共気ニ掛リ候、聞ク処ニ拠レハ本年ハ殊ニ医学生多数募集相成哉ノ風説有之、毎度ナカラ本年之好ム処最モ出来容易ナリト人々称シ居候得、官途勿論代議士弁護士等ハ一切見込ナキ様被思候、可相成医学ヲ目的トシテ入学スル様致度候、
学資送金ニ当時之位困難見シ事曽テ無之五円ノ金ヲ借受ケルモ容易之事ニ無之候、就テハ其地ニ於テ学僕等ニ住込又ハ何カ半学資位ノ見込ミナキヤ、実ニ今頃気毒之次第ナレ、時ハ十方ニ暮レタル申込ミ候、
盛岡ノ斎藤之喜八ノ如キ今十七才ノ若年ナレトモ学資モ携帯セスシテ学撲トナッテ米国フランシスコトヤラニ渡航シ、目下米国高等学校ノ最終四ヶ年生ニアル由、又月給トリニナル時ハ六十円位高級得ル資格ヲ有免如キ実ニウラヤム(マ)シク存候、免ニ角出来得ル限リ経費節険(倹)シ若シ本年入学致兼ネタル場合ハ尚ホ学生スル事可不能、将来ノ方針トモ心懸可致候、実ニ世間ニ対シテハ外分悪シク候ニ付此場合大々的晝夜別ナク勤勉シ世ノ筈(恥)ニ不相成様被致度候、
時節柄不止得婦人会ニモまつへノ名義ニテ加盟、國庫債券モ五十円加入致候、
先ハ取急キ右用事迄、早々
三月十四日 野 村
長一殿
【解説】「前略無事に勤学とのこと大慶に思う。次に当方は無事しのいでいる。
本年の入学何とも気に掛かっている。聞くところによれば、本年は、ことに医学生の多数募集があるように風聞している。毎度ながら、本年こそは好むところに最も容易に入れるだろうと人々が言っている。官途、もちろん代議士、弁護士等は一切見込みないように思われる。なるべく医学を目的として入学するようにしたい。
学資送金に、今度の位困難したことがかつて無かった。5円の金を借り受けるのに容易な事ではなかった。ついては、その地において学僕等の住みこみまたは何か半学資位の見込みがないものか。実に今頃気の毒な次第であるが、時は十方に暮れたような思いである。
盛岡の斎藤の喜八のごときは、当時17歳の若年であったが、学資も持たずに、学撲となって米国フランシスコとやらに渡航して、目下米国高等学校の最終4カ年生であるという。また月給取りになる時は60円位の高級を得る資格をもっているという、実にうらやましく思っている。
とにかく出来る限り経費を節倹し、もし本年入学しかねた場合は、なお学生をする事は許さない。将来の方針とも心掛けるようにせよ。実に世間に対して外分が悪い。この場合大々的に昼夜別なく勤勉し世の恥にならないようにせよ。
時節柄やむを得ず婦人会にもまつへの名義で加盟、国庫債券も50円加入した。
先は取り急ぎ右用事まで、早々」という内容。
文中「実ニ世間ニ対シテハ外分悪シク候ニ付此場合大々的晝夜別ナク勤勉シ世ノ恥ニ不相成様被致度候」の一節がある。
随筆集『胡堂百話』の「画家になる夢」で「(前略)とにかく、私は、医者だけはどうしてもいやだった。絵描きが駄目なら文学だが、文学で飯の食える自信がなかった。母親はどんな顔をしていたろう…と、思い返してみるのだが、何も言われた記憶がない。半世紀前の女親は、純良な空気みたいな存在だったのだ。『頼むから医科へ行け』『文科ならゆきます』両々、大いに頑張った末、たして二で割る現代の政治家ではないが、法科ということで妥協した。せがれが役人か弁護士になる夢で、父も我慢してくれたのである。早速、上京して受験勉強である。三月から七月まで(当時は七月が入学試験)本郷の下宿を一歩も動かず机にかじりついたら、別人かと思うほど、やせてしまった。なにしろ、秀才でも優等生でもなかったのだから一高合格ときいた時、中学の先生たちも、『へえ?野村のやつが…』とキモをつぶしたそうだ。何も自慢をするわけではない。人間一生に一度くらい、滅茶苦茶の糞勉強をする期間があってもよいと、私は今も信じている」と書いており、前出の父長四郎の叱咤(しった)激励を実行したことが分かる。
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