■ 〈胡堂の父からの手紙〉93 八重嶋勲 よく当地農家の生活を見よ
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■144半紙 明治37年4月12日付
宛 東京市小石川区竹早町百番地 猪川
方
発 岩手県紫波郡彦部村大巻
前略去ル旧廿ニ日ニミキ子ヲ佐比内村沼田方ニ呉遣シ候祝納品モ出(来)秋ニ買求ムル積リニテ振舞モセス本人ニ姉タミエヲ付ヶ煤人タル佐比内中野主婦ノミニテ貸遣シノ體ニテ相遣シ候、尤モ先方ヨリノ申越ニ依リ斯ハ取計ヘ(ヒ)候、沼田照蔵ハ中学四年生去ル三月修学目下五年生ナルヨシ、去ル旧二十五日盛岡ニ出立致候由、先ハ安心被下度候、
目下之処何学校ニ通学致居哉、将来ノ方針等一報可致候、仮令七月高等三部ニ入学スルモノトシテモ目下ノ処中学生タリシ時ノ如ク日々勉学スル方得束(策)ナルヨリ又候失敗セシ時ノ覚悟迄今ヨリ心掛ケ置クベシ、併シ本年失敗ニ期シ(ス)モノナラバ到底目的達シ(ス)事不能モノ断念スルノ外ナカルベシ、然ル時ハ服農スル方第一或ハ無名ノ月給取位ナルベシ、何レ身ノ府(腑)甲斐ナキコトヲ念メ方針相立ツル様ニ可致候、其身勉学セシメンカ為メ数年間家族ノ困難実ニ見ルニ不忍、勿論目下ノ処ニテ学資送金ニ困難スル事他人ノ知ル処ニアラス、能ク々推察相成度、当地抔テ中学同程位ノ卒業セシモノ教員ノ如キモノニ十才(歳)未満ニシテ三十円以上又ハ□□伸(紳)士ノ見立ヲ得テ無資勉学スルモノゝ如キ実ニ浦山敷候、能ク当地農家生活ヲ見父母ノ意ヲ□ふセラレ度候、家族近親ニモ替リタルコト無之、先頃中日下モト産後相煩(患)ヘ(ヒ)タルモ半月斗(計)ニシテ方今全快致候、章ノ暇ナキコト手余シルノ外無之、併シ他ノ年齢小児等比シ殊ニ重量澤山ニシテ強健ナリ、耕次郎ハ日々高等学校ニ通学シアリ、日詰県道筋ニ架橋ナリタル為メ一般通行便ナリ、当地ハ未タ後備兵六名召集相成タルノミ豫備補充馬匹ハ召集ナシ、
本年若者ハ長岡村ヨリ丹蔵ト云フ十六才(歳)ニナル男(三太ヨリ尚幼ナリ)赤川万吉半分赤川寅松半分等ナリ、キクエモ不相変家業ニ励精働キ居ル実ニ安心ナリ、
気候未タ梅桜開花セス、麦作萌ヲ出シ青々トセリ、稲種未タ井戸ヨリ揚ケス、金融一般不通ナリ、職工ノ如キ休業同様ナリ、徴兵猶豫ノ義(儀)ハ猶豫証書紛失ノ為メ大ニ不都合ナルモ免ニ角紛失届添付シテ遣達セリ、右報導迄、早々
三十七年四月十二日 野村長四郎
野村長一殿
【解説】前略さる旧二十ニ日にミキ子(長一の妹)を佐比内村屋号隠居、沼田方に嫁がせたが、祝納品も出来秋に買い求めるつもりで、振舞(披露宴)もやらず本人に姉タミエを付け、媒酌人として佐比内の中野家(長一の母の実家)の主婦のみで嫁がせたのであった。
もっとも先方よりの申し越しによって取り計らったものである。沼田照蔵は、中学4年生を去る3月修学、目下5年生であるという。さる旧二十五日盛岡に出立したということである。先ずは安心されたい。
目下のところ何学校に通学しているのか。将来の方針等一報すべし。たとえ7月高等3部に入学するものとしても、目下のところ中学生だった時のように日々勉学する方が得策である。またぞろ失敗した時の覚悟まで今より心がけておくように。
しかし、本年失敗に期すものならば到底目的達することができないものと断念するほかないだろう。しかる時は、服農する方のが第一。あるいは無名の月給取位なるべし。いずれ腑甲斐無いことであるが、それを考えずに方針を立てるようにせよ。その身に勉学させようとした数年間だったが家族の困難実に見るに忍びない。
もちろん目下のところ学資送金に困難していることは他人は知らない。よくよく推察するように。当地等で中学同程度位の卒業した者の教員は20歳未満で30円以上または□□紳士の見立てを得て無資で勉学するとのことで実にうらやましい。
長一に、よく当地農家生活を見、父母の意を分かってほしいものである。家族近親にも変わったことがない。先頃中、日下モトが産後を患ったが半月ばかりで今は全快した。章の暇ないこと手余しである。しかし他の年齢の小児等と比べことに重量が多く強健である。耕次郎は日々高等学校に通学している。日詰の県道筋に橋が架かったため一般通行が便利になった。当地は、いまだ後備兵6名が召集になっただけである。予備補充馬匹は召集なし。
本年の若者は長岡村より丹蔵という16歳になる男(三太よりなお幼である)、赤川万吉半分赤川寅松半分等である。キクエも相変わらず家業に精励働いており実に安心である。
気候いまだ梅桜開花しない。麦作萌を出し青々としている。稲種はいまだ井戸より揚げない。金融一般不通なり。職工の如きは休業同様である。徴兵猶豫の儀は猶豫証書紛失のため大いに不都合であったが、とにかく紛失届を添付して送った。右報導まで。早々」という内容。
長一が、徴兵猶予証明書をなかなか送らず、父長四郎をやきもきさせのは、実は紛失したためであったことが分かった。
「日詰県道筋ニ架橋ナリタル為メ一般通行便ナリ」とあるのは、平井橋のことで、日詰町の平井八十八が私財をもって日詰町と彦部村星山の間の北上川に、明治36年に架橋。賃取橋で、大人1銭、小人5厘、荷馬車4銭、人力車3銭。明治43年の大洪水で流失してしまった。その後に紫波橋が架橋された。
(県歌人クラブ事務局長)
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