2007年 1月 8日 (月) 

       

■ 〈続・岩手人の見た戊辰戦争〉1 和井内和夫

 第一章 戊辰政変と東北戦争
 
  ■はじめに

  05年10月から約40回にわたり、「岩手人の見た戊辰戦争」という題で盛岡タイムス紙に連載した文は、東北戊辰戦争の直接の要因と盛岡藩の対応、関連して秋田久保田藩やその他の東北諸藩の動向、明治初期の政治・軍制などの諸改革、そして戊辰戦争に関連した戦術的あるいは技術的問題などについて書いたものである。

  したがって、幕末混迷期から戊辰戦争を含めた戊辰政変全般についてはあまり触れていない。

  「岩手人の見た戊辰戦争」を端緒とする論議の発展として、全国的視点での戊辰政変に至る諸問題や、その中心になった薩摩藩や長州藩など西国諸藩の状況と動き、また関係者の功罪やその評価ということになると、広い意味での戊辰政変を考えなければならないので、その点について述べてみることとする。

  戊辰戦争が始まったのは、明治元年1月の京都近郊鳥羽伏見の戦いということになっているが、戊辰政変となると戦争そのものだけが問題ではないので、その前段階から考えなければならない。

  戊辰戦争については、明治以来いろいろな角度、いろいろな立場から研究されているが、とくに東北の戊辰戦争となると、最近と言っても大分前になるが、昭和38年ごろから、原口清(注1)、石井孝(注2)そして佐々木克(注3)の諸氏によって繰り返し論ぜられている。

  3氏の論点は、主として奥羽越列藩同盟やいわゆる東北朝廷=公議府に対する分析・評価と、東北における戊辰戦争の意義と影響などについてである。

  それらも参考に、戊辰政変と東北戦争に関心がある読者のため、私なりの視点からその概要をまとめてみることとする。

  ■内戦への動き−その前段

  戊辰政変の直接のキッカケは、現状に不満を持つ西国諸藩の下級藩士たちや、徳川幕府の衰退の兆候を権力復活の機会到来ととらえた一部公卿たちの、野心と権力欲に始まったものと考えている。

  そしてその前提には、薩摩藩と長州藩の藩を挙げての政権への野望がある。それは幕末から二百数十年前の「関ケ原の戦い」以前からの大藩意識、つまり両藩とも徳川家とは本来対等であるという意識である。

  それに加え、関ケ原の戦いの結果、それまでの120万石からほぼ3分の1の36万石に減封された長州藩、そして禄を減ぜられることはなかったが、幕府から押しつけられた木曽川整備工事により人的にも経済的にも多大の犠牲を強いられた薩摩藩は、徳川幕府に対し恨み骨髄に徹していたと思われ、両藩とも藩を挙げて反幕府の気運があったのは当然であろう。

  徳川幕府の権威が低下し、西南諸藩や朝廷からの批判が目立ってきたのは、嘉永6年のアメリカペリー艦隊来航以後のことである。

  徳川幕府の権威と規制力の低下は

  ア、世襲制度の悪影響による譜代諸藩の人材不足と老中制度の機能低下
  イ、薩長をはじめとする西南外様諸藩の総合力の向上とその影響力の浸透(徳川幕府や譜代諸藩との相対的比較において)
  ウ、徳川幕府の商品・貨幣経済の発達に対する無策
  エ、アメリカをはじめとする欧米列強の開国(開港)圧力への対応の不手際
  オ、主として薩長両藩およびその脱藩浪士を含む尊攘派と朝廷(一部公卿)との接近・謀議による幕府に対する攻撃
  カ、京都をはじめ各地における脱藩浪士の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)による治安の悪化

  −などから表面化しつつあったが、それが決定的になったきっかけは開港勅許問題である。それに起因して有名な江戸桜田門外の幕府大老井伊直弼暗殺事件が起きている。

  統治権いわゆる国民を支配する権力は、国家あるいは国家的なものが形成されて以来、力によって争奪を繰り返してきたものである。

  しかし同じ武家でも公卿化し朝廷と一体になって日本を支配統治していた平氏から、力で政権を奪い取った源頼朝の鎌倉幕府設立以後、政権は朝廷から武家に委託される形をとってきている。いわゆる日本独自の武家政治である。

  委託者であるその朝廷を逆に支配規制していた徳川幕府であるが、前述のように、嘉永以後次第にその力、具体的には各藩に対する規制・強制力を失ったため、全国各藩の意識統一や世論対策として朝廷の権威を利用しようとしたのが勅許問題である。

  たとえてみれば、経営上の失敗による社内外の風当たりを避けようとした社長が、苦し紛れに、引退して何の権限も持たない前社長に伺いを立てたようなものである。

  それでは社長の権威は下がるだけである。そしてそれだけではなく、前社長とすれば「俺もまだ力があるんだ」と強気になるであろうし、それまで冷や飯を食わせられていた前社長の取り巻き連中や、社長の座を狙っている者たちとすれば、弱気になった社長の様子を見れば、引きずり下ろすチャンスと思うのが当然である。

  徳川幕府の弱気にその衰退の兆候を見た西国諸藩とその藩士たち、そしてそれまで長年冷や飯を食わされてきた公卿たち(注4)が張り切ったのは当然で、チャンス到来と考えたことは間違いない。

  以後その道順を決定的にしたのは、幕府からの権力奪取という共通の目的で結びついた薩長軍事同盟である。そこからは政権争奪戦争へと一本道であった。

(毎週月曜日掲載)

   ◇   ◇

  (注1)原口清=静岡県出身、名城大学教授、明治維新史学会理事長。主な著書(論文)「明治維新政府の成立」「藩体制の解体」「戊辰戦争」

  (注2)石井孝=栃木県出身、東北大学教授。主な著書(論文)「明治維新の国際的環境」「学説批判明治維新論」「戊辰戦争論」「明治維新の舞台裏」

  (注3)佐々木克=秋田県出身、京都大学人文科学研究所教授。主な著書(論文)「奥羽列藩同盟の形成と性格」「戊辰戦争」「志士と官僚」

  (注4)冷や飯を食わされていた公卿たち
  徳川幕藩制時代の公卿たちの生活は大変厳しいものであった。幕府が達した「禁中並公家諸法度」により生活のすべてが規制されていただけではなく、京都以外への移住や、農・工・商などの生業を持つことも、またそれらの仕事を他人に委託してやらせることも禁じられていた。

  武士の知行に当たる采地・給禄であるが、最高の近衛家ですら付加的な雑給を合わせても実質1千石を超す程度で、平均では150石以下であり、公卿全数の5分の1は30石というかろうじて食えるだけという状態であった。

  明治になっての禄制切り替えの際、旧公卿については旧禄に比較して最低で50%増から最高は30倍までの優遇措置を行い、旧大名やその家臣で高祿の武士たちとの均衡を図っている。

  公卿たちにとって明治は「王政復古さまさま」であったであろう。


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