買ひ得ずて顕(た)ちくるものに法隆寺古材の炉縁屋久杉の机
鹿野幸子
新春初売りセール。元日から営業の店もあり、日本列島24時間不眠不休の感がある。昔、海辺の町に住んでいたころ、私も二日の初売りに出かけたことがある。目玉品はこたつであった。7時頃(ころ)行くと、もうデパートの前は長蛇の列。限定こたつは私のはるか前の人あたりで売り切れになった。そのとき、一緒に並んでいたあるおばあさんが、「ああくやしいな、来年はもっと早く来よう」と大声で言ってそのまま帰ってしまった。「来年かぁ、ことしまだ二日目だぞ」と、周囲に初笑いの声が上がったことだった。
さて、この歌の作者の欲しい物は、少々趣を異にする。法隆寺の古材の炉縁であり、屋久杉の机だという。炉縁で思い出した。昔、囲炉裏(いろり)の縁を、「ゆりぎ」と言った。寄り木、あるいは揺り木であろうか。炉の内側は雲母で囲われ、めらめらと炎が上るとイルミネーションのように輝いた。
数寄者の市には時々意表をつくものが出るらしい。白洲正子さんは法隆寺の勾玉(まがたま)のペンダントをお持ちでよく写真に載せておられた。
私は数年前、歌の大先輩から、奈良薬師寺の古材で作られた文鎮を頂いたことがあった。たなごころにずっしりと重く、木肌のぬくもりがあり、どのような経緯にせよ、これが千年の昔の材かと感じ入ったものだった。
「五百枚の賀状を書きて若かりき今年は余す三百枚さへ」とも詠まれ、都心でのOL生活の長かった人だがその後、「少しづつ捨てつつ生きむその一つ旅に写真を撮らざることも」と身辺の簡素化を心掛けるようになられた。
晩年に歌集を出され、あとがきに、古い歌稿を何十年分か紛失してしまったと嘆かれた。欲しい物や失った物に執着するのは人間の常。一切無であり空であると経文は説くが、誰しも欲しくて買えなかった口惜しさは相当なもの。私はその度にこの歌を思い出している。
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