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■利視公御代御城内え淡路丸大明神御勧請之事
寛延二(一七四九)年己巳九月二十五日(小菅家手控帖写し)御目付小向四郎兵衛・戸田内権太夫より御差し紙到来。来る二十六日、小菅武左衛門登城候ところ、御中丸鑓懸けの間へ寺社御奉行米内長太夫・御目付小向四郎兵衛・戸田内権太夫、熨斗目麻上下にて列座。このたび淡路丸大明神御鎮座に付き、めでたき御時節候ゆえ、先年御とがめ仰せ付けられ置き候者、不調法ご免成さるるの旨仰せ出さる。ただしこの節、かねて不調法仰せ付けられ置き候者これあり方ばかり数人これ御呼び出す。(事例あり割愛)
一、巳九月二十六日戌上刻淡路丸へ御当家御先祖信直公御事淡路丸大明神と吉田殿より奉札カに付き、御遷宮。翌二十七日、御家門衆ならびに北東南御家老・御用人・寺社御奉行・御目付参詣仰せ付けらる。大明神御勧請に付き、八月御堂出来栄え、太守御潔斎。この節信徳霊神と唱えたてまつり、後寛政十(一七九八)年十月五日二百回御忌、利敬公御代に櫻山信徳主大明神と御改む(解説二)
一、十月三日より五日まで聖寿寺にて信直公尊号常住院殿四品太守大禅定門百五十年御忌御法事これあり、五カ寺初め御領中大小の寺院拝礼。
五日上刻太守利視公御束帯にて御仏詣、御子様方ならびに八戸領守(主)遠江守様、加州(加賀金沢城主前田家、南部家は本家として礼遇した)よりの御代香、御当家門葉、高知より五十石以下まで諸士拝礼を仰せ付けらる。もっとも高知面々は東禅寺へ相詰め。百石以上諸士は教浄寺へ。九十九石以下は法泉寺へ詰めおり。指図次第聖寿寺へまかり出で拝礼相済み、畢(おわり)て当寺において旧悪の罪人死者その罪を免許す(解説三)。
十月二十六日、淡路丸大明神御社にて神楽を奏す。同二十七日高知・諸物頭願い上げ参詣。
篤焉言う。慶長四(一五九九)年亥十月五日御卒去。寛延元(一七四八)辰年にて百五十年に当たる。しかれども寛延元辰年は利視公御参勤御定年にて御在府。かつ御国旱魃(かんばつ)にて不作なり。よって翌二年御下向の所にて九月大明神御鎮座、十月百五十年御忌御法事これあるものか未詳。後考に待つ。
『奥南盛風記』に言う。寛延二年十月五日、先祖常住院殿信直公百五十年忌により聖寿寺にて大法事を執り行わる。御膳部七五三に御備え、九月二十六日、城内淡路丸に信直公の御霊を御勧請。利視公自ら祭祀を取り行われ。宮号を淡路丸大明神と崇む(解説四)。あるいは言う。信直公・信恩公・利幹公の神霊を祭るとも言う。この時禁獄の罪人ことごとく大赦を行わるの旨、利視公神前にて御側御用人印東弥茂市に命ぜらる。寛延元年信直公の百五十年といえども、元年は辰年にて利視公御在府ゆえ、今年執り行うものなり。
以上『篤焉家訓』巻之九
利視公御代昵近の面々へ御書きなし下され、あるいは御側頭をもって仰せ出され候写し(淡路丸大明神勧請に関する部分のみ抽出)
○寛延二年八月十一日左の通り仰せ出さる。淡路丸御宮御上棟遊ばさるに付き、御祝い申しあげ候様にと御側頭中より仰せ渡さる。
○同年九月十九日御書一通、御側・御小納戸・御次、拝見候様にと佐羽内九兵衛相渡す。もっとも去る十七日に仰せ出され、今日までに拝見候様にとのことなり。
御書き写し
当月二十日より身など儀浄潔斎、二十六日信徳霊神、淡路丸へ御鎮座候。右に付き汚穢これ無き面々、二十六日夕六時(午後六時ごろ)頃、淡路丸へまかり出で候様に存じ候。居所は係の者指図これあるべく候。もちろん前夜より清浄いたし相詰め申さるべく候。以上。
九月十四日 大膳 (宛所)側中残らず 小納戸中残らず 次中残らず
○同年九月二十四日、左の通り仰せ出され相達し来る。二十六日、淡路丸へ相詰められ候方、畳紙の外懐中物、下ヶ物相なり申さず候。この段申し達し置き候、以上。
九月二十四日 高野左兵衛 漆戸玄蕃 桂源五右衛門 (宛所)御次中
○同九月二十七日御書き写し左の通り。
信徳霊神、淡路丸に御鎮座、右祝儀となし吸い物・酒を遣わし候。明二十七日朝五時(午前八時ごろ)登城これあるべく候。以上。
九月二十六日大膳(御宛所) 三戸八助殿 三戸萬之助殿 御側中残らず、姓名殿付け 御小納戸右同断 御次中右同断 御茶道右同断。
尚々汚穢これある面々よろしからざるに候。連名免じ申すべく候、以上
御書色紙御上書に右御請けおよばず。各姓名下に「奉」と相記申すべくと、御書き付けこれあり、もっとも、この節、鶴の御吸い物これ下さる。
以上『篤焉家訓』巻之二十
【解説】
淡路丸大明神御宮は旧盛岡城内に鎮座する桜山神社の旧社名。淡路丸大明神の勧請については、七十三話(『祐清私記』を読む、「桜山神社勧請」)でも触れており、全容の解説は七十三話に譲る。
冒頭の記録は、御宮勧請のご祝儀として大赦が行われたことに関する記録。恩赦に浴した人は四百人に及んだとされるが、ここは対象者の一人、小菅家の縁者(氏名等は割愛)の事例を小菅家の手控えから抄録したもの。親類など関係者を城内・御中丸鑓懸の間に呼び出し、寺社奉行・目付列座の中、恩赦の趣旨を述べ、免罪を申し渡した様子を伝えている。
(二)では唯一神道吉田家から中興の祖信直に対し、淡路丸大明神の神号をもらい受け、城内淡路丸へ御宮を創建したこと。のち利敬の代、寛政十(一七九八)年十月五日に二百回年忌の法要を行い、櫻山信徳主大明神と改称したことを伝えている。
(三)では寛延二年十月三日より五日まで、聖寿寺にて信直の百五十年忌の法事が挙行されたことの記録。信直の法号は「常住院殿光禄大夫江山心公大居士」(イ)。『聞老遺事』によれば、初め「住法院殿光禄大夫江山心公大居士(ロ)。のち常住院殿と改め申す」とある。
しかし、信直葬儀の導師を勤める高僧がなぜこともあろうに官位従二位の唐名「光禄大夫」と命名したのであろうか。
官位から唐名をもって命名するならば、従四位下と伝えているから、中大夫、または武明威将軍となるとの疑問が生じる。
しかし事は簡単。信直の官途名は大膳大夫。その唐名は光禄卿もしくは大官令など。推して光禄卿の光禄と大膳大夫の大夫を分割合体させたと推考されるが、お粗末な話である。
この記録は当初「常住院殿四品太守大禅定門(ハ)」であったことを伝えており、すべての疑問は、いつのころであるかは未確認ながら、後世において、誰かが大禅定門号から大居士号と改号する際に誤り命名したものと知られ氷解する。なお法事に参列する諸士は家格により東禅寺・教浄寺・法泉寺の三ヶ寺に詰めたと伝え、どれほどの人が参列したかは定かでないが大変な混雑であったことが想定される。
(四)、現在祭神は初代南部光行をはじめ二十六代信直、二十七代利直および三十六代利敬の四神とされているが、しかし『奥南盛風記』は「信直公・信恩公(三十一代)・利幹公(三十二代)の神霊を祭るとも言う」とある。
ちなみに信直は近世南部家中興の祖。利幹は利視(三十三代)にとって養父、信恩は実父である。祭神が簡単に替えられるのか、どのような経緯があったのかなどを含めて興味がある。
本文の後半は巻之二十に記述する「利視公御代昵近之面々え御書きなし下され、あるいは御側頭をもって仰せ出され候写し」から、関連する項目を抽出して紹介した。これによって八月十一日以降の動向。特に儀式前日から当日および直来の様子などをうかがい知ることが出来る。
■余録 淡路丸の曲輪名に関する疑問
淡路丸大明神の神名は城内淡路丸に鎮座する所から命名されている。そもそも淡路丸の地名は、『祐清私記』盛岡築城の事によれば「当所南館の主は代々不来方家が住み、その頃の主は不来方淡路と申す、の居館の跡たるによって淡路丸と号く」と伝える。
一方、寛永十二(一六三五)年に盛岡城を永世の居城とする前の居城・三戸城の縄張りを見ると、本丸の帯曲輪が淡路丸であることに気付く。他にも盛岡城内と同様に御田屋清水という井戸跡も確認できる。はて、三戸城淡路丸の語源由来はどこから来たのだろうか。
大胆な発想であるが、どうやら盛岡城淡路丸の曲輪名は、御田屋清水の名称などと共に三戸城から写したものというのが真相でないだろうか。
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【訂正】5日付掲載の前項で誤りがありました。本文下段後ろから14行目「天正十八年(ママ)」の部分の「(ママ)」を削除。解説の冒頭3行目「天正十七(一五八九)年」を「天正十八(一五九〇)年」に、同3段目右から9行目「明暦二(一六五六)年」を「明暦三(一六五七)年」に改めます。同最下段右から15行目「(伝存の有無未確認)」を削除します。
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