2007年 1月 13日 (土) 

       

■ 〈ドイツ西部の森と街へ〉21 下田一 標高850メートルの水洗トイレ

 バスが幹線道路から分かれて狭い道に入り、カーブがきつい上り坂の連続である。

  ポット教授「これからコーヒーブレークをするヴィーデンに向かいます。なぜ小さな村にしたかといえば、手作りのおいしいケーキがあるからです」。通訳されると、後方に座っている女性たちから、うれしそうな声が漏れる。甘党の宮脇先生も口を添える「わたしも忘れられない味です」

  バスがヴィーデン村に入った。村といっても直線のない曲がった道路の両側に家屋がぽつんぽつんである。ガストホーフ・ヒリィヘン(田舎の宿屋ヒリィヘン)の前に停(と)まった。切妻屋根の壁には〓ヘレ谷のホテルとカフェ〓と書いてある。5段ほどの石段を上ってレストランの席に落ち着いた。

  宿の、いかにもドイツ婦人らしい腰回りの太い女主人と、若いウエートレスが運んできた皿の上のケーキは、下辺15センチ、高さ7センチの三角形で、幅が4センチ、それが2切れである。ケーキに不案内なので中味は分からないが、女主人の説明を訳したのでは、ケーキの名称はメモしなかったが「赤っぽいのはワインに漬けたサクランボをゼリーで固め、2段重ねの間にクリームを挟み、その上に生クリームを掛けてある」という。

  見るとこってりと生クリームを載せている。もう1皿持ってきた。こちらは細長い20センチほどの棒状のケーキが4本、周りにやはり生クリームだ。

  まずコーヒーをすすり、厚幅ケーキをフォークで分けたが甘い。1個の3分の1で止(や)めた。棒ケーキを2本食べたら、もう腹いっぱいの感じである。遠い日本から客人が、はるばるこのような山奥に来るというので、精いっぱいの気持ちで作ってくれたのだろう、それなのに食べかけて残すなどは、ほんとうに宿のおばさんに申し訳ないと思ったが、口に合わないのは致仕方ない。腹も身の内である。

  斜め前に座ったポット教授は、声も出さずにケーキを口に運ぶ。周りを見回すと女性たちは味の評価をしながら食べている。にぎやかである。

  わたしは、ケーキを食べかけのまま残し、場所を聞いたトイレは奥にあった。入るとタイル張りで立派である。席に戻ると、さすがの女性たちも食べきれないらしく、残りのケーキを小箱に詰めていた。ホテルで食べるのだそうだ。

  出発は17時30分と告げられ、皆は日差しで明るい戸外に散った。わたしはトイレの水洗が気に掛かって仕方がない。通訳の恵子さんを通して「ここに水道が敷かれ、トイレを水洗にしたのはいつか?」と、女主人に聞いてもらう。

  彼女は後片づけの手を休めて「わたしは知らない。主人に聞いてくる」とベランダに向かい、戻ると「1898年なそうよ」と教えてくれた。1898年は明治31年ではないか。聞いたわたしは驚きで大きく息を吸った。

  ここは、中心都市フライブルクから東へ10キロも東に離れた、標高850メートルの山の中の小さな集落である。盛岡の東にある綱取ダムよりも奥の村に水洗トイレを敷いたのが、100年以上も前である。プロイセン王国がまとめたドイツ帝国(そのころの)の公衆衛生への配慮、最近は社会基盤の整備というが、その早い時期に感服したため息である。村を見回しても、もちろん電柱は立っていない。

  近年になって岩手の農山村も、集落集排水事業によって水洗化しているが、父が勤めていた昭和15年ころの岩手県庁(木造)でもトイレはくみ取り式だった。盛岡市が米内浄水場から給水を始めたのが1934(昭和9)年、下水道事業を開始したのが1953(昭和28)年、下水処理場を稼働させたのが1965(昭和40)年であるから、環境整備への取り組み方の違いを知らされた1日であった。

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします