2007年 1月 29日 (月) 

       

■  〈盛岡百景〉98 上の橋 戦時の金属回収逃れた擬宝珠

 上の橋は、盛岡城跡そばに架かる中の橋、下の橋との3橋の中で1609(慶長14)年に最初に架けられた。奥州道中の延長である松前街道のルートになる。中津川左岸地域の現紺屋町の旧鍛冶町には、江戸日本橋から139里の一里塚があった。

     
  木製の高欄に青銅擬宝珠が載る上の橋  
 
木製の高欄に青銅擬宝珠が載る上の橋
 

  上の橋が盛岡百景に選ばれたのは高欄に据え付けられた青銅擬宝珠(ぎぼし)が一番の要因だろう。上の橋の18個は国重要美術品(重美)。擬宝珠は上の橋と中の橋が架橋された当時から付けられていた。擬宝珠は上の橋と下の橋に計36個あり、現存する中には銘文に「上ノ橋」「慶長十四年巳酉年」や「中ノ橋」「慶長十六年辛亥年」とあるものも。現存物に下の橋の銘文はなく、下の橋に擬宝珠はなかったという説がある。

  中の橋が1910年に洋式に架け替えられ、中の橋の擬宝珠は12年に上の橋に移された。3橋は何度も流され、擬宝珠も流出の憂き目にあった。消失のつど補っていたが、慶長14年製が5個現存している。

  擬宝珠にはなぞと言えるものがある。第2次世界大戦中は金属回収の戦時協力が広がった。盛岡では岩手公園に台座の残る南部利祥中尉の騎馬像が知られる。擬宝珠も回収の対象となった。では、なぜ残ったのか。回収されたが使われなかったという話もあるが、職員が現市水道部庁舎などがある愛宕町の倉庫に隠したという話を聞いたと、盛岡市役所OBから以前教えられたことがある。

  重美に指定されたのが終戦間際の45年8月3日というのも気になる。回収されたあとに指定されたのか、隠して時間をかせぎ指定に尽力したのかなど、想像をかき立てられる。下の橋のものもまとめて重美にしなかったことも判然としない。ただ、戦時中の消失危機を逃れ、擬宝珠のある橋があることは間違いなさそうだ。

  文化施設で管理されることなく風雪にさらされてきた擬宝珠は傷みが著しくなり、一時期は穴のある擬宝珠の中をコムクドリが巣にしたことも。95〜96年に下の橋を含め全8個の補修が行われた。

  藩政時代の名残がある上の橋だが、周囲は大きく変化している。本町側の料亭は閉じられ跡地に遊戯店の計画が浮上し、市が94年に取得して落ち着いた景観を残した。だが、マンションなど中高層の建物は増え続け、上の橋から岩手山を眺めるのも難しくなった。
(井上忠晴記者)

 


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