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■往古より御献上物の覚
○ 御参勤
一、御太刀 一腰
一、綿 三十把
一、御馬代 銀二十枚
大納言様え (註 将軍の世子)
一、御太刀 一腰
一、御馬代 同断
○ 御馬 二疋
大納言様え
一、同 一疋
附箋
三疋 参勤之節
二疋 秋
二疋 御暇之前
右七疋古来献上之処、近年一ケ年一疋宛秋御献上也
○ 土用入 三日目(二日目もあり)に多くは御献上也
一、かたくりの粉 十袋一箱え入 一袋一升五合入
御定目一升五合なれども二升程も入
大納言様え
右同断
附箋 竪香子(かたくり)
○ 八朔
一、御太刀 一腰
一、御馬代 黄金拾両
大納言様え
右同断
○ 初鮭 一尺 簾巻にして七月に入
大納言様え
右同断
○ 二番鮭 一尺 同断
大納言様え
右同断
○ 初菱喰 一 台に載八月に入
大納言様え
右同断
○ 二番菱喰 一
大納言様え
右同断
○ 初鶴 一 台に載八月に入
大納言様え
右同断
○ 白鳥 一 同断八月に入
大納言様え
右同断
○ 重陽
一、御小袖 包のし認 二
大納言様え
右同断
○ 十月上旬
一、御茶 一袋
一、鯛 一折 但干鯛箱
大納言様え
右同断
附箋
以前は塩鶴上り候えども、近年あり合わせと仰せ出
だされ箱肴なり
附箋 御鷹御茶には御残なし
○ 若黄鷹 公方様えばかり 五連 十二月
銘々箱に入れ出所を付る、木札に認む
○ 薯蕷 包のし認 一箱 五十本入 十一月十日前後
大納言様え
右同断
○ 鮭披 一箱 拾枚入 十一月始
大納言様え
右同断
○ 初鱈 一
大納言様え
右同断
○ 雉子 男鳥ばかり一箱 十羽入 寒に入り
大納言様え
右同断
○ 年頭
一、御太刀 一腰
一、御馬代 黄金拾両
大納言様え
右同断
国元献上 何 松平薩摩守(薩摩鹿児島、島津家) 領分献上 何 松平陸奥守(陸奥仙台、伊達家)
在所献上 何 松平土佐守(土佐高知、山内家) 在所献上 何 南部大膳大夫
右四家の外は献上とばかり書き、在所・領分・国元等の頭書きはなし
【解説】この記録は南部家が例年国許の産物を季節の節目に献上した諸品の品書き。この記録後、文化(一八〇四〜一八)末年からは正月三日に床飾り「御盃台」も献上品に加わっている。
そもそも、献上とは貴人や主君に物品を差し上げること。総じて諸大名が幕府に献上する品は『大名武鑑』によってつぶさに知ることができる。
これを種類別に量の多寡から見ると、海産物の献上が最も多く、鳥類がそれに続き、素麺・葛粉(くずこ)・蕨粉(わらびこ)・饂飩(うどん)・蕎麦(そば)粉など、加工食品も数多く散見する。
特に九州地方の諸大名からは砂糖・氷砂糖などの献上が目につく。全国に点在する同じ葛でも、西国の大名が献上する葛は「吉野葛」などとブランド品に変わる。その他「南都酒」「近江鮒(ふな)鮓」があり、「桑名素麺」「桑名蛤(はまぐり)」「吉野榧(かや)」「道明寺糒(ほしい)」など。これらを時献上という。
一方、南部家の献上品を見ると「かたくり」は全国唯一の献上品であったほか、馬は南部家と仙台伊達家からの献上時には将軍の上覧があり、関係者に時服などが下賜せらることを恒例とした。
同様に両家から献上する鮭(さけ)は、ともに禁裏・仙洞御所へ駅進せられることを例としていた。「かたくり」は花巻を産地とし、後には宮古からも出した。もちろん、領内全域に自生していたが、各地からは銭をもって公租とした。
諸大名が特産品を時献上に選定するためには、それなりの歴史経過があったはずである。次の一文はその一端を示唆していると考える。
「慶長七(一六〇二)年鹿角郡白根山の産出益増加し、礦石(鉱石)百目より金四十目乃至(ないし)八十目を出す、茲(ここ)において公(利直)、北十左衛門を奉行とし、多数の坑夫を使役して盛んに採掘せしむ、尚(な)ほ続いて尾去沢の西道山にも金鉱を発見し、これが産出また頗(すこぶ)る盛んなり、翌年夏に至りては白根山より、みよし金・とち金とて大きさ大小豆の如き、あるいは火石の如きほとんど純金の塊石を出すこと珍しからず、(中略)この事を秘密となすべからざるを以て、井伊直政によりて幕府に報告し、かつその後公駿府に行きて徳川家康に謁し、運上として白根金千枚、砂金五十斤を献ず、家康大に喜び早速の報告奇特なりとて運上の額全部を公に賜ふ、また別に将軍秀忠に献ぜんとせるも、井伊直政より、一度献上する上は爾後年々献上せざるべからず、若し産金不足し献上を中止する如くにては首尾宜しからざるを以て見合すべしとの注意あり、依て将軍への献金を止む」(『南部史要』)。
この記述から、時献上の品は、有限の物は避けて永続できる物から選択されていたことを知る。
■南部家の鶴献上
次に南部家献上品の中から鳥類、特に家紋ともなっている鶴献上について具体的に概観する。
鶴を献上する家は、南部家を含めて二十数家ある。南部家の烏献上は『大猷院殿御実紀』第四十一の寛永十六(一六三九)年八月九日条に「けふ南部山城守重直より新鶴を献ず」、次いで同月十六日の条に「南部山城守重直より鶴、松平陸奥守忠宗・丹羽左京亮光重より新鴻を献じければ、鶴は禁裏へ、鴻は仙洞へ駅進せらる」とあるのが初見。
その鶴は、『御領分通分諸上納金銭雑記』の「御献上の品々」によれば、天和二(一六八二)年当時には、三番鶴まで献上していた。献上体制は御用人が総括。
その属僚として鳥飼・鷹匠・鳥見・犬飼・御餌飼小者があり、盛岡周辺の沼地を管理する鳥見から日報が提出されるなど、捕獲のほか、狩猟環境の管理がなされていた(『御用人雑書』)。
当初、南部領は鶴や白鳥等の飛来地。鳥頬にとっても楽園であったものとみられる。しかしながら、次第に鳥の数は減少傾向を見せ、藩は狩猟区を制定して輪獲に踏み切り、やがて飼育策を講ずることになる。やがて、それでも対応しきれず、松前に出向き、高額の経費をもって購入する事態にまで逼迫(ひっぱく)。寛文元(一六六一)年には鶴を密猟した兄弟を処刑している。諸般の事情から見せしめの処分であったと想定される。
南部家には藩主在府の年に御茶干鯛献上というのがある。実は、はじめ塩鶴を献上していたのだが、元禄元(一六八八)年には調進不能に陥り、その代替品(『我覚集』)という。さらに時代が下り「初鶴・白鳥、右之品例年八月以後に飛来の処(中略)当年渡少稀にて」献上不能願いを提出する例(『御在府留』文政十(一八二七)年十一月十三日条)なども多く散見する。
『甲子夜話』の記述は寛政(一七八九〜一八〇一)年間の状況であろうか、「松平土佐守より恒例献上する土佐節と称する国産、近頃は御当地小網町に居る魚賈大坂屋武兵衛というより、上品をかの侯に調進して、これを献上せらるゝとなり。松平下総守より桑名の大蛤を貢せしも、運送の手数掛るとて、房州の大蛤を以て換貢す云々」などが散見される。
諸大名には南部家のような対応もあるほか、運送の手間費用の節減だとしてはばからず、江戸で調達する事例が増加しているという世相を伝えている。
自然保護の問題、流通機構の改善による利益の追及など、まさに現在叫ばれているさまざまな課題が、江戸時代においても葛藤としてあったことを垣間見えて面白い。
幕府への時献上は、文久二(一八六二)年八月に「年始・八朔御太刀馬代・参勤・家督・其外礼事に付ては、これ迄之通、特別に由緒あるものは格別、その他の献上品は全て免除とする」と令しており、おおかたはこれによって廃止せられたものと想定される。
■総献上のこと
最後に総献上に触れる。三家をはじめ諸大名は八朔(八月一日・太刀馬代献上)のほか端午(五月二日)・重陽(九月二日)・歳暮(十二月二十一日)の三賀儀に時服を献上することを佳例としていた。これを総献上といい、その嚆矢(こうし)は『台徳院殿御実紀』慶長十三(一六〇八)年五月朔日の条に「毛利中納言輝元入道宗瑞は帷子五、(中略)南部信濃守利直帷子四、(中略)按ずるに諸大名一統に時服を献ずること、ものに見えたるはこの時をはじめとす。これ三季の賀儀に時服献ずる権輿にや」と記録する。
献上の時服とは、端午は帷子(上著・襲ねとも合わせて二枚)、重陽・歳暮は綿入れ、いずれも葵の紋付を新調して献上する仕来りであった。仕立ては上著・襲ねともに、いずれも仮に表と裏とを縫い合わせてあるのみ、寸法は誰の体型にも合うように、すこぶる緩やかに大きく仕立て、綿は一衣に付真綿五百目ずつ袋に入れたままであった(『江戸幕府の研究』)という。
これは献上品をそのまま下賜品とするための幕府の知恵であったらしい。
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