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岩手医科大教養部文学科教授の黒澤勉さんによる講演会「病をどう生きるか…正岡子規の人と文学」が1月30日、盛岡市緑が丘3丁目の緑が丘老人福祉センターで開かれた。同センターと上田公民館の「移動公民館講座」が主催。約70人が聞いた。
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黒澤勉さんの講演会「病をどう生きるか…正岡子規の人と文学」 |
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黒澤さんは正岡子規(1867〜1902年)を「病気によって誕生した文学者」と紹介。「文学に対する情熱を持ち、命を懸けた。病が重くなるにつれ、その文学は深まっていった」と説明した。
「子規」はホトトギスの異称。「鳴いて血を吐くホトトギス」というように、ホトトギスは結核の代名詞だった。50以上の雅号を持っていた子規は1889年(明治22年)、結核で喀血(かっけつ)したのを機に「子規」に統一。残された短い人生を文学に生きるという思いがこの雅号を生んだという。
そのとき、子規は「卯の花をめがけてきたか時鳥(ほととぎす)」「卯の花の散るまで鳴くか子規(ほととぎす)」の2つの句を詠んだ。「卯の花とホトトギス」は「ウメにウグイス」などのような取り合わせの一つ。卯年生まれの子規は、卯の花とも縁のある自分が「ホトトギスの病気」(結核)となったのは、何かの因縁かなという思いを込めたと解説した。
「養生すればもっと長生きしたのでは」と黒澤さん。医者の制止を聞かず、松尾芭蕉の足跡をたどるために東北地方を1カ月旅行。さらに決定的だったのは、日清戦争の従軍記者として遼東半島に渡ったこと。帰りの船の中で大喀血したが、かろうじて生き延びた。
その後、結核から脊椎(せきつい)カリエスになり、ほぼ寝たきりの生活に。1896年から亡くなるまでの約6年間、痛みや苦しみと戦いながら、多くの優れた作品を書いた。
子規は病気をどう生きたのか。それを語るのは日記「仰臥漫録」。墨で書かれた文章のほか、スケッチや水彩画なども描かれている。
内容は食べ物のことが中心。何をどのぐらい食べたかという3食の記録をつづっているが、その大食に驚かされるという。「かぶりつく熟柿や髯(ひげ)を汚しけり」や「栗飯や病人ながら大食らひ」などの句からは「食欲は生命力の証し。それを記すことで、生きようとする執念、本能を残そうとしたのではないか」と読み解いた。
子規は日記に遺書を書いているが、その内容は天下の人に向けたもの。自分はせっかちで急ぎ過ぎたので病気になり、思うことの100分の1もできなかった。だが、皆はのんびりし過ぎで、あまり悠長過ぎると後悔するという教訓を残している。
子規は病を楽しんだという。どんな大病人でも、24時間痛みっ放しではない。苦しみが和らぐ一瞬「病のひま」を大事にして、そこに楽しみを見いだす。歌を作ったり、おいしいものを食べたりと充実して生きる工夫をしたと紹介した。
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