2007年 2月 4日 (日) 

       

■  九戸城跡、実は秀吉軍の改修工事 奥羽史談会文化講演会

     
  「新春郷土文化講演会」に詰めかけ九戸氏の歴史に聞き入る参加者  
  「新春郷土文化講演会」に詰めかけ九戸氏の歴史に聞き入る参加者  

 奥羽史談会(吉田義昭会長)は1月30日、盛岡市中ノ橋通のプラザおでってで「新春郷土文化講演会」を開いた。二戸市埋蔵文化財センターの関豊所長が「よみがえる北奥戦国諸豪族の世界〜国指定史跡『九戸城跡』発掘調査の成果から考察する」と題して講演した。最近の研究成果を踏まえて九戸城の歴史をひもといた。

 二戸市教育委員会では1989年から2006年度まで、ほぼ継続して九戸城跡を発掘調査してきた。城は天正19(1591)年に秀吉の奥州仕置軍によって落城した。調査以前は豊臣秀吉に対抗した九戸政実の居城と考えられていたが、本丸やその周辺の小口や堀跡などは秀吉の奥州仕置軍に従軍してきた専門集団が、落城させた後に3、4カ月で改修工事したものであることが調査によって分かった。

  関さんは石垣などの特徴について「豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)のために九州名護屋にわずか5カ月で築城した城跡や、朝鮮の現地で普請した30余りの倭城と同じ安土桃山様式の城」と解説し「九戸城も覇者秀吉にふさわしい城に衣替えし、家臣として戦国大名となった南部信直に下げ渡した」と説明した。

  調査では二の丸から首のない男女の人骨が10体以上出土している。秀吉軍の謀略によって開城させられた後の撫(な)で切りの跡と考えられている。首のない人骨が多数発見されることは大変珍しく、全国の研究者も注目しているという。

  「本丸を調査すると、盛った土から数多くの人骨や九戸氏の生活の跡が見られる。早急に九戸城を再普請するにあたって、死体などもそのまま埋め立てたのだろう。下げ渡された南部信直は居城したが、死体の上に築城された城は気持ちのいいものではなかったはず。すぐに盛岡城に移った理由の一つでは」と勝者であるはずの信直を哀れんだ。

  「地元で最も知りたい本来の九戸城の詳細は、現在の九戸城遺構の下にあり、一部垣間見るしかない」と残念がったが、わずかに発掘された本来の九戸城跡からは工房跡が発見されている。

  「工房から出土した鎧(よろい)の構成部品である札(さね)は漆と金泥を塗り込められている。そのほか、火縄銃弾丸の鋳型が見つかっており、当時の九戸氏の勢力の強さを知ることができる」とスライドを用いて解説した。

  参加した山田小八郎さん(74)は「今ある九戸城は九戸氏が築城したものだと思っていた。講演会はとても分かりやすく最新の研究成果が聞けたので良かった。地元では九戸政実の人気が高く、今後の政実の研究にも期待したい」と感想を話した。約130人が参加した。


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