2007年 2月 5日 (月) 

       

■  〈続岩手人の見た戊辰戦争〉5 和井内和夫

 ■仙台藩の思惑

  仙台・米沢両藩の会津藩宥恕(ゆうじょ)運動であるが、長年続いた不作や蝦夷(えぞ)地警備の負担により、官民ともに疲弊(ひへい)していた当時の状況からして、東北に戦乱をもたらすことを避けたいという考えがあったことは確かであるが、仙台・米沢の両藩を動かしていたものはそれだけではないと考えている。

  仙台・米沢両藩ともどちらも戦国以来の雄藩であるが、とくに仙台藩は薩摩・加賀に匹敵する歴史ある外様大藩でありながら、前記のような藩経済の事情もあり、幕末動乱前期においてはいかにも消極的な動きに終始し、それまで主として京都を舞台にしていた政局の中心に出ることはなかった。

  仙台藩関係者はそのことに対して忸怩(じくじ)たるものを感じていたと思われ、九条鎮撫(ちんぶ)総督の仙台入り当初の積極的姿勢や張り切りようからしても、自藩が東北はもちろん全国的にもヘゲモニー(主導権)を確保する絶好の機会ととらえたと思われる。

  ただし、当時の仙台藩のおかれた状況からして、前述のような薩長藩閥政府の最終的意図を読み違えことはやむを得ないことであろう。

  そのことが問題を複雑にしたが、東北戊辰戦争は薩長両藩関係者の会津・庄内両藩に対する私怨にはじまり、戦域が東北全域にまで拡大したのは、薩長藩閥政府の東北武力制圧の意思と方針によるものであると考えている。

  仙台・米沢両藩の意図したところを考える場合、米沢藩の新潟港失陥以後の事態収拾への要領のよい動き、仙台藩の場合の、引き続いた敗戦により、自藩が戦意喪失した後も盛岡藩に繰り返し参戦を要求していることに留意しなければならない。

  ■東北勢の問題点

  東北戊辰戦争における東北勢の敗因であるが、従来一番言われていたのは装備の問題である。具体的には、東北勢が装備していた先込めゲべール銃や和製火縄銃と、西軍が装備していたミニエー銃・エンフィールド銃・スペンサー銃などとの性能の差のことである。もちろんそのことも一因ではあるが、私はそれ以上に問題であったのは

  ア、東北全体として総合的戦略を立て東北全藩軍を統制指揮する権限と機能を持った統合参謀本部が存在しなかったこと(奥羽越列藩同盟あるいは公儀府といい名前は立派であるが、有効に機能したとは思われない=注7)

  イ、東北諸藩の軍編成の多くは旧態依然とした家格・禄高による序列を基本としており、員数合わせみたいなもので戦闘能力が低かったこと

  ウ、集団戦闘訓練や散開戦術、胸墻を利用した防御戦などの近代戦(当時の)に対する訓練ができていなかったこと

  エ、前記イと関連するが、士官の育成ができていなかったため、小隊長・中隊長クラスの第一線指揮官の指揮・用兵能力が低かったこと

  オ、封建体制のマイナスの影響により各藩相互の連携協力が困難であったこと

  などであったと考えている。

  特にイは従来あまり言われていなかったことであるが、この戦争で役に立ったのは銃隊の中心となった同心(足軽)以下の下級兵士であり、銃撃戦を軽視し戦場に槍(やり)持ちなどの従卒を伴ったりした剣槍術自慢の〓サムライ〓たちはほとんど役に立たなかった。その結果であろう、絶対数ではもちろん動員数に対する割合でも中級以上の藩士の死傷者は少ない。

  東北諸藩が、外国艦隊との戦いに敗れた薩長両藩の経験、第2次長州戦と鳥羽伏見の幕府軍の敗因、また数次にわたる白河城争奪戦での会津・仙台両藩の苦い戦訓などを、以後の実戦部隊の編成や指揮官の登用などに生かした形跡がないのはなぜであろう。

  東北諸藩に、前記の諸戦争に関する知識や戦訓に対する関心を持った者がまったくいなかったとは思われないのにである。

  格式など旧制に対する執着や、〓個人の戦いを目立たさせる〓古流・古式にこだわる抵抗勢力が強かったのであろうか。

  それとももっと根本的問題、つまり旧来の家格人事に終始し、軍制改革を遂行できる家老クラスのポストに、真に能力ある人材をすえることができなかったためであったとしたら、適材適所の人事登用を行って戊辰戦争にのぞんだ西国諸藩に比較して、戦争あるいは戦力についての現状認識において、鳥羽伏見の戦いを経験した会津藩を含め、東北諸藩の後進性は想像以上に大きかったことになる。

  ちなみに、東北統合の象徴である奥羽越列藩同盟であるが、その発展である公儀府を含め、戦乱の中で錯綜する東北各藩の利害を調整し、また総合的戦略を立ててそれを指示強制したり、あるいは戦争指導をした形跡はまったく見られないことは前述のとおりであり、奥羽越列藩同盟あるいは公儀府と名前だけは立派であるが、その実態は形だけであったものと考えている。

    ◇   ◇

  【注7】同盟の主導権

  九条鎮撫総督の東北入り以来、仙台藩は〓奥羽触れ頭〓という意識か大藩意識なのか(多分その両方であろう)、独善的にことを進めようとして東北のほかの藩から反発されている。

  また一応は東北・北越諸藩が協議した形式をとって成立した奥羽越列藩同盟あるいは公儀府であるが、実態は仙台・米沢・会津の3藩によって牛耳(ぎゅうじ)られていたことは確かである。(腰の入れ方が違うので当然と言えば当然である)

  そのことは別にしても、この組織が東北・北越諸藩に対し指導統制力を発揮したことは、まったくと言っていいほどない。

  仙台藩が西軍に降伏したのは9月になってからであるが、それより1カ月以上前の7月下旬、坂英力とともにそれまで藩を主導していた反薩長論者の家老但木土佐が更迭されている。

  更迭の理由は分からないが、仙台藩内部でそのころから事態の収拾(敗戦処理)に向けて何らかの動きがあったのは確かであり、それまで東北諸藩が認めていた仙台藩の主導権(らしいもの)も、そのころになると実態として胡散霧氷(こさんむひょう)していた。


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