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一、諸国道中一里塚の始め
慶長九甲辰年二月四日江戸より諸国道中筋へ一里塚仰せ付けられ、公儀より右御奉行として大久保石見守御廻り、同十五庚戌年五月日出来る。
奥南餘録に慶長九年二月仰せ付けられ、同年五月下旬に出来る
武用辨略に言う。一里塚に榎を植ること、その梢高ければ遣見に便あり、根ざし深ければ風に倒れず、ことに、諸木に勝れて茂りを争うものなれば、中古より必ず植えることなり、しかるに中の比(ころ)のことにや、一里塚に植えるべき木は長生して先年を経べき木は松に如(しく)べからずとて、将軍家に達してこの事を伺いけるに、松は風に摧(くだ)け安じ、餘の木を植えよと仰せけるを、餘の木を榎と聞きあやまりて榎を植えけるとぞ。しかれどもその説たしかならず。(「篤焉家訓」)
■ 盛岡領内の一里塚はいつ出来たのか
明治初年、岩手県内に一里塚がどれほどあったものか知る由もないが、現在、県および市町村が史跡に指定している一里塚は六十カ所のみである。
この記録は、江戸日本橋を起点として慶長九(一六〇四)年に一里塚が建設されたことを伝えるもの。
『徳川実紀』東照宮御実紀附録巻二十一は徳川家康の数多ある事績を伝える中で、慶長六年に銀座を設立して定位の銀貨を鋳造し、同十年には壱歩判(金貨・四分の一両)を鋳造したこと。また、その頃、駄賃銭の定額なくて、行旅難困を解消するために一里当たりの駄賃制を確立したこと。これと併せて路程の里数を織田信長、豊臣秀吉にならって三十六町一里制を定め、「一里ごとに塚を全国に築かしめて表識せしめた」と伝えている。ただし、ここには建設の時期は特定されていない。
このほか、『郷村古実見聞記』の「諸国一里塚始之事」には「慶長九甲辰年台命により山本新五右衛門、榎本清右衛門下向、東奥の駅路を為築、云々」とある。弘前藩の『津軽一統志』も同文。
概して各種記録は、慶長九年とするものの、同年は着手年とも、あるいは竣工年とも、もしくは着工して竣工した年とも読めるあいまいな表現である。加えて東奥には盛岡領も含むと解釈し「盛岡領内の一里塚は慶長九年に建設された」とする説が定説化していることに、いささか疑問を禁じ得ない。
なぜならば、一里塚の起点は江戸の日本橋。日本橋から盛岡までの里程は百三十九里とされ、この区間の塚の数は『増補行程記』は百三十四と明記。『東奥行程記』からは百五を確認される。素朴な疑問ながら、盛岡領内で工事に着手するためには江戸から順次着工にせよ、同時着工にせよこの区間における里程を確定している必要がある。
仮に江戸から測量と工事が同時進行でなされたとしても、盛岡領内での工事着工にはタイム・ラグがあって至当。(出拠を亡失したが、宇都宮藩では宇都宮城を起点に建設されたとの伝もあるようだが実態は不明。これが傍証されるならば塚の話にとどまらず江戸からの里程についても変わる可能性を秘めている)
併せて、本文(『篤焉家訓』)に散見する「慶長十五庚戌年五月日出来る」とする記録は、この年に盛岡領分における奥州街道筋一里塚の完成を示唆しているのではないかとの解釈からである。
結論のみならば、故板橋源説(『盛岡市一里塚調査報告書』盛岡市教・昭和五十年)も同説といえよう。このほか、脇街道の一里塚が完成したのは慶長十五年とする説も見かける。
しかし、『雑書』寛永二十一年十月十八日の条に「御家中脇道通一里塚打のために今日方々ヘ遣す」外があり、これら記録と併せて考える問題。
また、『宮古由来記』に「寛永十八年森岡より仰せ付けられ候に付、三閉伊の道法相改め、七里塚を築き申し候様に仰せ付けられ候云々」の記述から宮古街道(小本街道か)の一里塚は寛永十八年(一六四一)に建設されたとする説がある。私見では同説を論ずる以前に『宮古由来記』自体の史料批判が必要であることを指摘しておきたい。
■ 一里の長さ
高山彦九郎や吉田松陰などは、盛岡領内の四十二丁七里に興味を示し、紀行文中には随所に関連する記述が散見する。その中で高山彦九郎は『北行日記』に、花巻辺で入手した記録を基に、三十六丁一里(大道)と四十二丁七里(小道)が同距離であることを突き止めた旨を記述している。
これが正しいとするならば大道は六尺三寸一間、小道は五尺四寸一間の尺を使用していたことになる。
しかし、時代が下り、文政六年に五戸御給人藤田武兵衛が盛岡宮古間に築造した一里塚の二塚間は同じ四十二丁七里制ではあるが、六尺三寸一間の尺を使用している。(現存絵図から算出)
当然その一里は三十六丁一里制に比較して六丁間延びしていることが知られる。『宮古由来記』の宮古街道については、それに沿った解釈で記述されているらしい。脇街道は七里制とする説もあるが、天保九年に新設された来満街道(三戸−鹿角間の街道)の一里塚は二塚間三十六丁と明記されている。
関連して『地方凡例録』は一里について興味あの事柄を記述している。その概要は「上古は壱里の法定まらず、里より里までを壱里と云しことなり。よって間数にはことごとく長短あり。漢土は六町を以て一里とす。本朝もこれに倣い六町を壱里と定めたる由、言伝れども、時代も詳らかならず、その遺風今も奥州は六町一里の処多し。多賀城の壺の石碑の里数も六町を以て壱里とす。天正中三十六町をもて壱里と定める。一歩(間)は六尺、一段は六間、一町は六十間、一里は六百間、この坪数六六の数を延べて三十六町と極めたる由」としている。
その上で「一里を三十六町と云も未だ行き渡らさる国々あり」とし、伊勢国を中心に五十町一里が多く、九州の内では肥後・肥前等にも五十町一里のところがあり、四国の内には四十町一里のところもある由。奥州白川領より東はすべて六町一里なり」とする。盛岡藩の小道は、古代の遺制が民間に根強く残ったものと言えよう。
ちなみに、元禄国絵図を作成したおり、幕府から一里塚二塚間の尺は三十六丁一里制か四十二丁七里制(小里)のいずれかとする問いがあり、城下周辺の実測結果を「盛岡鍛冶町万十郎屋敷一里塚より小高(盛岡四高側、後世の津志田一里塚の古称)まで三十四丁二十六間、小高の塚より見前塚まで三十六丁十間」、盛岡鍛冶町塚より黒石野塚(アネックス川徳前)まで三十六丁四十九間半、黒石野塚より長坂まで三十六丁十間』。従って領内の塚は三十六丁一里制を採用と報告している。
万延元年に城下加賀野から綱取ダム付近を経て釜津田・和井内から宮古へ通じる街道が整備され一里塚も建設されている。現在未踏査のままながら、図面によれば、二塚間の距離に長短があり一様ではないものの、平均三十六丁であったことが知られている。
■ 中央通りと片原の一里塚から推論
『盛岡砂子』仁王小路の条に、秋田街道の一里塚と想定されるが、「この丁西南角に昔より穴沢氏居り、この屋敷(桜城小学校付近か)の内に大なる槻木あり、昔の一里塚なり、(中略)安永の大火事にこの木焼枯れて今はなし」とある。
鍛冶町一里塚から千二・三百メートルの距離か。今一つ、正保・元禄・天保の各国絵図に記載されているのだが、夕顔瀬惣門を出て、北上川の夕顔瀬橋を跨(また)ぎ右岸は片原。橋のたもとで道は分岐し、西に進めば秋田街道。北に折れれば鹿角街道となる。鹿角街道を北上川沿いに北上し、安倍館に差し掛かる手前に一里塚の表示がある。
ここはくだんの仁王一里塚からやはり千二・三百メートル。仮にも鍛冶町一里塚は盛岡藩の元標と称されているのに、二つの塚とも一里に充たないのは何を意味するものだろうか。
関連して生ずる疑問だが、秋田城下と盛岡城下を結ぶ秋田街道の一里塚はどちらの城下を起点として設置されたのだろうかという問題。実は秋田藩が作成した正保の国絵図によれば、両藩の藩境でもある陸奥国と出羽国の国境に最も近い自領の一里塚に「国境より一里」と表示してある。
大胆な発想であるが、秋田・鹿角の両街道とも秋田藩との国境を跨ぐ街道。国境を起点として設置したとすれば、片原一里塚と鍛冶町一里塚まで、仁王一里塚と鍛冶町一里塚までが、いずれも半端な里程であることがうなずける。諸国の他例を調査しなければ単なる推論ではあるのだが。
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