2007年 2月 23日 (金) 

       

■  〈古文書を旅する〉155 工藤利悦 同心に2種あり、いずれも給料は2人扶持

 ■ 利直公御代御者頭
 
一、七十石     神 平左衛門
一、百石      鹿討 勘七
一、二百石     佐羽内仁兵衛
一、五駄二人扶持  岩間源右衛門
一、弐百六十石   杤内与兵衛
一、弐百石     久慈 主水
一、三百五十石   煙山 良治(『参考諸家系図』主殿光邦)
一、三百石     中野 門助
一、百石      大町兵太郎
一、五十石     一方井甚兵衛
一、六十石     谷地平左衛門
一、弐百石     本館 三平
一、三百五十石   長沢 兵部
一、五百石     米田四郎兵衛
一、三百石     船越伊兵衛(『参考諸家系図』は弥兵衛安秀・弥兵衛安昌の二代ともに利直公御代、足軽三十人を預と見える)
一、二百石     田代治兵衛
一、百石      野辺地庄蔵
一、百石      鵜飼茂内
一、弐百石     宮永三右衛門
  〆十九人

 【解説】

  この記録は慶長四(一五九九)年に信直の跡を襲封し、寛永九(一六三二)年に死去した利直の軍団を構成する、ここでは御者頭とある足軽組の頭の名簿。

  当時の名称は不明。ちなみに『参考諸家系図』によれば、大町兵太郎(『雑書』に重直代の御物頭で散見)・本館三平・長沢兵部・鵜飼茂内の家筋は記録をとどめていないが、神平左衛門房元・鹿討勘七・中野門助正為の各譜では御足軽頭。佐羽内仁兵衛の譜には御先手役。岩間源右衛門政直・谷地平左衛門秀高・宮永三右衛門の譜は御者頭。久慈主水には御鉄砲組御同心頭と三者三様の名称。

  なお、米田四郎兵衛義演(御者頭)・田代治兵衛(『参考諸家系図』は利直代の治兵衛光恒は百石、子治兵衛は重直に仕え二百石と見える)・杤内与兵衛吉政等は利直の嗣子・重直代の御者頭と記述する。

  しかし、利直代の治世約三十年間に御者頭(繁雑なため御者頭を仮称する)は延べ十九人のみかという疑問は解消されない。

  仮に、慶長六(一六〇一)年に起きた和賀陣への従軍者を『聞老遺事』の「信濃守利直公岩崎御出陣人数定」に見ると、「赤母衣・足軽大将一騎 三百石浅石清四郎 此下九人、足軽廿五人・小頭五人・錆(鉄砲の古称)玉薬一荷・箪笥一荷・合三十三人」「赤母衣・足軽大将一騎 三百石摂待孫八郎 此下九人、(以下同じ)」「赤母衣・足軽大将一騎 二百五十石小笠原将監 此下九人、(以下同じ)」「赤母衣・足軽大将一騎 二百五十石波岡五郎吉 此下十人、(以下同じ)」「赤母衣・足軽大将一騎 二百石岩間将監 此下十二人、(以下同じ)」「赤母衣・足軽大将一騎 二百石熊谷藤三郎 此下七人、足軽五十人・小頭十人・玉薬一荷・箪笥一荷・合六十六人」「赤母衣・足軽大将一騎 二百石金田一与次郎 此下七人」、〆足軽大将九騎が散見。

  また「利直公大坂冬の御陣御供人数」(『篤焉家訓』壱之巻)には、鉄砲組頭として三百石四戸久助、弐百石久慈主水、百五十石岩館惣八、弐百石工藤権太夫、百五十石山田仁右衛門、弐百石加成運助、百石七戸与十郎、弐百石四戸甚三郎があり、弓組頭として百石野田弥右衛門、弐百石田代治兵衛、船越介五郎、和井内三平が散見する。

  残念ながら、篤焉家訓の著者は、本文に見える十九人の氏名に何を語らせようとしていたのか、意図が読めない。

  ■ 御物頭・御者頭・御足軽頭

  御者頭を説明するために『南家古今雑記』同心の項を援用する。同心(足軽)に二種あり、一は町奉行に属して市中の用務を取り次ぎ、市中の取締をなせるは巡査の如し。一は先手役に属して戦役に服するを以て、練兵は銃を執りて先手役の指揮により戦頭に立てり。平時にありては諸般の伝達に当たり用務多し。この二種ともに給料は二人扶持(高六石)に、年末米三駄を給せらる。一組は三十人にして、組毎に先手一人にして総組三十あり。

  以下、少し立ち入って見ることにする。

  正保二(一六四五)年初頭の盛岡図によれば、同心組丁は上田一丁目から同四丁目にかけての一画。現在県立中央病院が所在する地域からNHK盛岡放送局がある付近に及んで存在していた。

  四ツ屋地蔵尊がある升形は後世に四ツ屋惣門と称したが、この絵図には上田へ出口とあり、その延長線上、中央病院敷地付近から又重兵部同心町、望月長兵衛同心町、鬼柳蔵金(人か)同心町と続く。

  望月長兵衛同心町から西へ向けて丁字路があり、この通りは大湯二郎右衛門同心町、この先に太田縫殿同心町がある。今一度、鬼柳蔵金同心町に戻り、北へ向けて通りを進むと家並みはしばらく途絶し、その先に鷹巣文左衛門同心町、高橋惣右衛門同心町がある。

  一方大湯二郎右衛門同心町から北に向けて丁字路があり、鷹巣文左衛門同心町、高橋惣右衛門同心町と平行して中島才兵衛同心町、船越与兵衛同心町がある。今一本、中島才兵衛同心町から西に向けて丁字路があり、五日市左近同心町。その先に米田四郎兵衛同心町があった。

  なお同時代を伝えているはずの『雑書』の寛永二十一(一六四四)年三月十五日条に「織笠庄助の同心助五郎、浜田蔵人の同心庄吉二人云々」が散見するものの、織笠・浜田両氏の同心町は確認できない。神子田町、上小路が建設されたのはその後のことである。

  いずれにせよ、その頭を御物頭と称したことが確認できるのは、正保二(一六四五)年正月十一日条に散見する具足餅の祝いに関連した記録が初見である。

  延宝二(一六七四)年正月には御者頭、天和二(一六八二)年正月には御足軽頭、同年八月には御同心頭、同三年正月には御物頭、同四年正月には御足軽頭、貞享二(一六八五)年正月には御者頭、元禄七(一六九四)年正月には御物頭、同八年正月には御者頭、同九年正月には御物頭。その後も天保十一(一八四〇)年に御先手役と改称(『御役人帳』)するまで改変が延々と続く。その間に、宝永三(一七〇六)年正月・四年正月及び享保二(一七一七)年正月に御同心頭と称しているほか、宝永八(一七一一)年正月、享保三(一七一八)年正月及び同十四年正月には御足軽頭、正徳二(一七一二)年正月(九月には御者頭と見える)、同三年正月には足軽大将で見える(いずれも『雑書』による)。

  御先手役は明治二(一八六九)年の廃藩で闕役となった(『覚書』)。時に、安政二(一八五五)年の職制改革の状況を伝える『大小御役人末々迄人数積』は、御先手役の員数を二十一人、内江戸詰一人、大畑詰二人として、鹿角御境奉行・野辺地御境奉行・猟師奉行・屋舗奉行は御先手役の兼役であった。

  なお、一般に盛岡藩の役職を語るときに『官職志』を活用する例が多い。ちなみに同書には「御物頭 二十四人 位は御持筒頭に次ぐ、正保中これを同心頭と云い、延宝中に至って物頭と称す」とある。史料としては、いささか問題を含む記録であることを一言触れておきたい。

  ■ 同心(足軽)の人数

  同心の人数は、『御領分通分諸上納金銭雑記』(天和二=一六八二=年三月改め)に「御足軽三千百四十五駄九百九十七人(軒)」とあるのを初見とし、安政五(一八五八)年支配帳[かっこ内は嘉永二(一八四九)年の人数]には千二百二十三人(千二百二十三人)とある。内訳は城下同心三十人(三十人)、御先筒組同心七百人(八百四十人)、町組同心六十人(十人)、江戸抱同心十六人(十五人)、江戸留守居組同心五十三人(五十三人)、花巻同心七十人(七十人)、鬼柳同心五人(〇人)、大槌同心三人(〇人)、野田同心二人(〇人)、沼宮内同心五人(五人)、福岡同心二十一人(〇人)、三戸同心二十三人(二十人)、五戸同心五人(十人)、七戸同心十人(十人)、野辺地同心三十人(〇人)、田名部同心三十人(十人)、花輪同心三十人(三十人)、毛馬内同心三十人(二十人)。

  実は、御者頭の支配下にあった同心は城下同心三十人(三十人)と御先筒組同心七百人(八百四十人)及び江戸抱同心十六人(十五人)。町組同心は町奉行、江戸留守居組同心は江戸留守居役、花巻同心は花巻城代の預かり。花輪同心は花輪の南部(中野)吉兵衛家預り、毛馬内同心の内十五人は大湯の南部(北)壱岐家預り、残り十五人は毛馬内の桜庭裕橘家預り。他は各地代官の預りであった。


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