2007年 3月 2日 (金) 

       

■  〈古文書を旅する〉156 工藤利悦 共通の部分欠落で判明した絵図の正体は

  ■ 御城下町間数

一、夕顔瀬組丁 弐百拾弐間半     一、山伏小路  六拾間五尺
一、☆久慈町  百拾壱間       一、☆材木町  百五拾間四尺
一、☆長町   三百三拾六間弐尺   一、長町横丁  百三拾間
一、夕顔瀬橋  五拾間        一、☆三戸町  弐百九拾七間
一、赤川    八拾間        一、四ツ屋町(☆四屋町)
                             九拾四間壱尺
一、☆八日町  百三拾三間三尺    一、☆本町   百三拾三間三尺
一、☆紙町   三拾三間三尺 但、加賀野之方六十間
一、同橋    三拾間        一、新丁(☆新町)三拾壱間
一、☆大工町  弐百五拾九間余    一、☆寺町   百四拾間三尺
一、☆油町   百八拾四間五尺    一、☆鍛冶町  百九拾間四尺
一、☆紺屋町  百六拾壱間三尺    一、中町    百拾六間三尺
一、☆六日町  百三拾三間三尺    一、☆十三日町 百七拾五間四尺
一、☆馬町   百六拾五間半     一、☆石町   弐百三拾六間余
一、石町裏新丁 七拾三間四尺五寸   一、石町表新丁 七拾五間四尺
一、石町惣門  四拾五間壱尺     一、鉈屋町   百四拾五間
                        天和二年に新鉈屋町と唱
一、神子田組丁 弐百三拾七間     一、十文字   六拾間壱尺五寸
一、☆川原町  百拾間壱尺      一、☆仙北町  九拾八間
一、仙北町組丁 弐百七拾四間二尺八寸 一、仙北町片側丁 九拾五間弐尺
一、上小路組丁 百九拾九間      一、十人組丁  七拾間
一、御普代丁  六拾間  一説に垢離取場の橋両側を御普代丁と唱とも云
一、新小路組丁 七拾間        一、新小路   三拾八間
一、☆葺手町  七拾九間       一、☆肴町   百六拾九間四尺
一、八幡丁(☆八幡町)三百弐拾五間半 一、八幡丁片側丁 弐百拾壱間余
一、下小路   三百九拾間余     一、山岸丁   百弐拾四間弐尺
一、上田組丁  九百拾八間余     一、梨子木丁  百八拾間
一、材木町横丁 四拾間
                        『篤焉家訓』

 【解説】

  この記録は盛岡城下のうち、侍町を除く同心組丁および商家などの町並みの長さを記述している。

  後年の『岩手県管轄地誌』と対比して大幅な伸縮が見られる。☆印を附した町名は文化元(一八〇四)年三月に幕府へ提出した『陸奥国郷村仮名附帳』に記載の「盛岡城下附二十三町」。

  記録の上限は、安永二(一七七三)年に誕生し、寛政十一(一七九九)年に家督を継いだ編者も知らないとする「御普代丁」を求めることで大分詰めることが出来そうだが、筆者は傍証史料に恵まれていない。

  「中町」は「新町」とともに「呉服丁」の古名とされるが、ここに見える「新町」は「呉服丁」と無関係なように想定される。この町は当初「新町」と称し、寛文三(一六六三)年には「中町」で散見。その後正徳三(一七一三)年頃から再び「新町」と変わり、文化九(一八一二)年十月に呉服丁と改称している(『御家被仰出』)。

  上限を探る手段としては各町の名称変遷や同心組丁の成立時期をつぶさに調べる方法などもあるが、ここでは触れない。一方、石町裏新丁・石町表新丁は、文化九年十月に新石町。同年十月に寺町が花屋丁のほか、久慈町が茅丁、川原町が川原丁などと改称されているので、この記録はそれより以前の記録と知られる。
 
   ■ 盛岡城の竣工時期
 
  盛岡城が竣工した時期は諸説錯綜しているが、元和五(一六一九)年とする説が多いようだ。

  『奥南旧指録』巻之四は、着工か竣功か不明ながら「元和元(一六一五)年不来方御城を御築城、同五己未年に御移なされ玉ふ」(将軍秀忠公薨去 附利直公御逝去之事)。

  『郷村古実見聞記』第弐は「古名不来方(福士淡路・日戸内膳・米内右近)同居の舘、二十七代利直公御代慶長二丁酉(一五九七)年三月より始り、元和三丁巳年利直公御縄張御普請始る、然かるところ慶長四年信直公御逝去ゆえ、暫く福岡に御住居、その後元和五年御普請、石垣等出来に付、利直公盛岡に移り給ふ、然るに中津川洪水、度々橋落ち御城え川水押入り、是を防くに安からす、再ひ三戸へ御引移なされ(中略)、その後寛永十癸酉(一六三三)年四月廿七日、重直公江戸御出駕御入部、五月八日に盛岡御城へ入らせられ、これより御代々の御居城なり、寛永十三(一六三六)年失火出て盛岡城炎上に及び、再び造営有て、今に永く御居城となす」(「盛岡御城御築之事」)。

  要約かつ増補するならば、慶長二年から始まった盛岡城の築城普請は、翌三年に豊臣秀吉、翌々四年には父信直が死去したため中断を余儀無くされ、元和三年から再開。同五年に一応の完成を見た。
  これに伴い利直は新城に移住したものの、中津川・北上川の治水が難しく、その後も工事を続行せざるを得なかった。従って、ひとまず三戸に戻り、また郡山城を仮城することもあったが、完成を見ることなく寛永九(一六三二)年に死去した。
  従って、南部家が盛岡城を居城としたのは重直の代、寛永十年を待たなければならなかった。同十三年の盛岡城炎上は落雷によるとする説が有力である。
 
   ■ 初期城下絵図とその成立年代
 
  当時における盛岡城下の様子を伝える絵図は一般に「寛永の図」として流布している。

  一方、慶長とか寛永、正保などの年号を附して盛岡市中央公民館や岩手県立図書館等が所蔵している絵図群がある。かつて岩手県立図書館が所蔵する「慶長盛岡図」(伝慶長図・イ図)「盛岡城下図」(伝寛永図・ロ図)、「盛岡古図」(伝正保図・ハ図)を精査したことがあった。

  絵図は現在の住宅地図より詳細である。同心組丁以外のすべての屋敷には間口・奥行きおよび家主名が記載され、侍名(四百三十八名)から時代が策定出来るという史料である。

  作業は結果として当初の目的は徒労に終わったが、ひょうたんから駒の例えのような収穫があった。伝存していないとされていた(「岩手史叢」(二)に解説)絵図の流布図であることが判明したのである。

  この絵図は幕府に提出した「正保城絵図」の下絵図として作成され、屋敷奉行の手許で、また町会所で二次利用されていた。

  城南に位置する屋根葺町の一画(町家四軒分)に三者三様の表現ではあるが、(イ図)は家主名の処に「キレ」と表示、(ロ図)は「虫つみによ不分」、(ハ図)は空欄のまま。

  つまり、原本に記載されていた文字が不明であるという共通項を有しており、年代が異なる史料と考えていた絵図だが、実は同一史料から転写された流布図だったのである。

  当然、年代策定の作業が待つ。絵図には総計千四百四十一軒の屋敷が記載される中、年代策定に資する対象者は苗字を持つ四百三十二名、その中から上田侍町に住居する久慈喜兵衛満尊の家督は不明であったが、その父喜平次満国は正保二年四月に病死。その遺跡を継いでいたのである。

  上限は正保二年四月となる。次に仁王小路に屋敷を有する斉藤甚助は寛永二十一(一六四四年=十二月十六日に正保と改元)年三月に家督を継ぎ、正保二年七月に死去(『雑書』)している。この二人の人物により正保二年四月から同年七月の期間で調査された絵図と判明する。

  これにより幕府の命(正保元年十二月二十五日)によって作成された「正保城絵図」(内閣文庫が所蔵)との関連も判明した。考察の過程は割愛する。

  正保の絵図には、純町人町として、川原町(上ノ橋北詰)・油町・大工町・寺町・四ツ屋町・磐手町・久慈町・鍛冶町・鉈屋町・屋根葺町・肴町・六日町・十三日町・新馬労町・新町・山伏町(修験のみ)があり、銅屋町・京町・八日町・三戸町・紙町・紺屋町・新町・餌差町・三日町・田町の各町には比重の差はあるが侍・商人が共住、内丸・上田・上田同心町・侍町(仁王)・加賀野侍町・川原町・鷹匠町・侍町(大清水)・侍町(上衆)・馬場町・厩尻が純侍町として確認される(「盛岡城下図」)。


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