2007年 3月 9日 (金) 

       

■  〈EU見たまま〉ポルトガル編1 小野吉郎 リスボン

 この国は小さいが、南欧の常春の国、年中快適な環境で暮らせるので、ポルトガル人はのんびりしていて、いつの間にか西欧の最貧国になってしまった。それではまともに暮らせないので、多くのポルトガル人はフランスやイギリスに出稼ぎに行っている。

  戦前からイギリス人がこの国に目をつけ、別荘を建てて、暮らしていた。

  かつては冒険好きな人種だった

  昔からのんびりしていたわけではない。資源が貧しく国が小さくて息苦しいので、ヨーロッパの中では国家の統一を真っ先に果たした国。それでポルトガル人は最初に海外に飛跳した、冒険心の強い国民だった。大航海時代のはじめに、ポルトガルとスペインとで、まず大西洋のアゾレス諸島をめぐって争った。

  そこでローマ法王が仲裁に入って、ポルトガルとスペインとで協定して、世界での勢力範囲を二分した。スペインは西大西洋とアメリカ大陸、特に中南米を、ポルトガルはアフリカとアジアの特に東南アジアのモルッカ諸島まで。しかし日本はどちらにも含まれていなかった。これが後年トラブルと鎖国の原因にもなる。

  しかしこの協定は厳密に守られたわけでなく、ポルトガルはブラジルに、スペインはフィリピンに進出してしまう。

  ポルトガル人の来日

  探険の先駆者はエンリケ王子で、中央アフリカに進出して一時はその総督になった。

  しかし長続きせず失地のため本国に戻った。そして後進の探険家の指導育成に力をいれた。

  ヴアスコ=ダ=ガマは探検航海家として初めて南アフリカ経由でインドに到達した。ゴアはポルトガルのアジアでの最初の足場となり、後に中国のマカオも東洋での拠点となった。

  そしてポルトガルが大航海に乗り出してわずか40年足らずで日本の豊後の海岸に難波したポルトガル船、2年後種子が島にポルトガル人が上陸してきた。

  日本語になったポルトガル語

  カルタ、ボタン、コンペート、ボーロ、カステラ、パン、てんぷらなどはポルトガル語。てんぷらは「テンプラート・デジラータ」(これは望んでいたごちそうだ)を略したものである。

  リスボン大地震

  首都リスボンは中世のころ、北海を中心としたハンザ同盟につながる貿易港として栄えた。その後植民地から送られる豊かな産物で潤った。そもそもインド航路を開拓したきっかけとは、元は中近東の陸路からもたらされた香料が来なくなり、海路に切りかえなければと、さし迫った必要があったからだ。

  1755年突如としてリスボンが大地震と大津波で壊滅的被害をうけ、商人と庶民の下町は全滅、高台の高級住宅地は難を逃れた。11月1日「諸聖人祭の日」の午前9時40分に大勢の人が教会のミサに集まっていた。リスボンの40ある教会のうち35まで崩壊してしまった。

  すでに数回の前兆の地震があったし、200年前、400年前も大地震があったが、古いことをおぼえている人がなく、一時は10万人死亡かと思われたが、本当は1万人。西欧全体に衝撃を与えた。このほか6万人がそれに続く飢餓と伝染病で亡くなった。各国の宮廷から救援物資や義えん金が送られてきた。

  フランスのマリ・アントワネット女王は後年「わたしの誕生日にこんな不吉な事件が起きるとは…」。そして革命で処刑された。

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