■ 〈古文書を旅する〉157 工藤利悦 三戸古参の士を差し置かれしゆえ
|
■ 侍屋敷丁割のこと
○元和年中侍屋敷始め上田丁・田町(今は三戸町と言う、元は田形なり)、元三戸町は三戸より引越の者、ここに住するゆえに名とす。
上田、今の組丁は往古赤川町限りの外門際(現在この地に四ツ家地蔵尊が鎮座する)より門前丁へ入口まで両側侍町にて、それより向(さ)きは升形際まで組丁なり、また門前丁は今の組丁際より与力丁へ曲る所の角まで両側侍屋敷にて、それより向き高源坂(現在県立中央病院から夕顔瀬橋への途中、山田線踏切付近の坂)まで組丁なり、安永七(一七七八)年戌四月十日御城下大火の節類焼、後ち御家老北左衛門殿仰せ渡せられ、侍屋敷の焼け跡へ赤川門際まで今の組丁を建てる。門前丁・元組丁はこの節より高源坂まで侍屋敷になる。与力丁は昔より侍屋敷なり。ただし今門前丁入り口に組屋敷三軒これありしは組丁割の家数不足の分なり。
【頭注】元和元(一六一五)年、盛岡侍丁割初め。諸士丁の始まりは田町なり。三戸商人引っ越して家作せしゆえ三戸町と号す。
【頭注】元三戸町と言うは今の侍丁、三戸丁(現盛岡中央郵便局の通りのち日影御門外と称す)の事なり。この三戸町は三戸より御供にて来る町人を指置きして三戸町と号す。後に三戸町人今の田町へ御引き移し(七十七銀行より盛岡税務署の方向、中央通交差点附近から上田通交差点附近まで区間)、元三戸町は侍丁に御取り立てなり。よって田町を今は三戸町と唱う。元三戸町へは三戸古参の士を指置かれしゆえ、この侍丁を三戸丁と言いしなり。『東南深秘抄』に出つ。
(中略)
○帷子丁は貞享(一六八四〜八八)年中、帷子太左衛門善慶が丁割しゆえ帷子丁と言う。平山丁は平山伝右衛門が丁割しゆえに平山丁と号す。帷子丁は帷子氏仰せを蒙り丁割出来る。初めて居屋敷を拝領し住居す。平山丁は平山氏仰せをこうむり、元禄八(一六九五)亥年に丁割をして屋敷を拝領し住居せしゆえ、しかる所戌四月十日、御城下大火の節、両家とも類焼、帷子屋敷は相払い、平山屋敷は知行所よろしきゆえ直々家作出来て今に至るまで居住す。帷子屋敷は帷子丁北側、田町入り口より二軒目、平山屋敷は平山丁北側、同町入り口三軒目なり。
【頭注】倉館孫四郎は享保十七(一七三二)年に七十歳なり、この人二十ばかりの時、帷子丁・与力丁・新山堂新丁の丁割出来候由なり。赤川新丁はその前にて知らず候由。長町も帷子丁・与力丁と一所に丁割出来候由。
○その後大澤川原も侍丁割出来る。昔は町の中に侍屋敷あり。また寺院・山伏も入り交じり居りし也。本町より内丸入り口右角に大光寺左衛門(註・『正保図』には大光寺宮菊と見える。左衛門は先祖名)、大手先は米田四郎兵衛、新丁(後の呉服丁)左角江刺兵庫(註・『正保図』には江刺兵十郎と見える。兵庫は先祖名)居り、その後内丸へ引き移る。
【頭注】重信公御代、延宝四(一六七六)年大澤川原丁割出来、家作願上る者追々これあり。(註・この年、北上川の川道付け替え工事があり、産ビル側石垣が築かれた)
○下小路、今の諸士丁は昔諸士家来どもを指置き候屋敷に一割の節下され候由、これによって下小路と言う。
○上田横丁は彦三郎晴政公(二十四代)の御娘尼君となり居住する、高源寺殿と申す、賎尼この門前に集り居住す。ゆえに門前丁と言う。高き所に杉あり、すなわち高源寺殿の墓所なり、高源坂と言うあり。高源寺殿坂の略語なりと言い伝う。
【頭注】安永七年四月十日御城下大火の前、今の組丁は赤川門際より諸士屋敷にて、これを上田丁と往古より唱う。今の門前丁は右の横丁なり、高源坂を世俗誤りて「こんけい坂」と言う、高源寺様また住居ゆえにその所を別に高源寺といふなり。今東禅寺院居所なり、御住庵とも言う、文化の末、命によって境内は侍屋敷となる。
○高源寺尼住み給う所を御新宅と唱う。右御新宅に高源寺松というあり。
○上衆小路は昔上方衆御召抱の士を指置かれ候ゆえに丁の名とす、大清水丁は往古より清水湧出る所ゆえに名付ると言う。
○馬場丁は御馬役の指置かれし者、乗駆け手入したる所なり。
○鷹匠小路は御鷹匠惣て御鷹取り扱いの指置かせられし者候丁なり、今の大清水横丁は餌指小路なり、多賀社へ行き候横丁を今に至りて元餌指小路と唱う。
○加賀野丁は加賀野村を侍丁に御取立成され候ゆえに名とす。
○御徒丁は御徒の者一所に指置かせられ候丁なり。
○御城下町割の節、仙北より来る商人を一所に指置かせられ、仙北町と唱う。津軽より来るものは津軽町に指置かせられ、今の津志田辺なり。 (篤焉家訓)
【解説】
この記録は簡略ながら侍屋敷丁割の状況を伝えるものである。如何せん元記録が散逸している中での書き留めであり、あえて詳細を求める方が気ままのそしりを受けそうにも思われる。倉館氏からの聞き書きなど貴重である。
■ 『南部領盛岡平城絵図』にみる侍丁の配置構造
前回に触れた正保図の正本は、現在『南部領盛岡平城絵図』として国立公文書館内閣文庫が収蔵する。
同図の作図意図は軍事的である。従って、巷間に流布する正保図は藩政資料として活用されている実態があるのに対し、城郭内外の距離、石垣や土塁の高さや川の深幅、渡河・船渡しの状況、侍屋敷や足軽屋敷の配置、升形の位置などが主眼となっている。
概観すれば、侍屋敷群は、城の北側に虎口が開かれて追手門があり、追手門の外側に堀を挟み両側に侍(高知)屋敷が各一屋敷。城東は紺屋町と新町(後の呉服丁)に向けて中の橋門があり、中津川を挟み、同様の配置と見える。
中津川の下流に下の橋があり、同橋を中心に中津川東側縁から南、新穀丁惣門にかけて北上川左岸区域が一郭を占め、北東の加賀野出口惣門の内側にも一郭がある。
一方、内丸から西に開かれた日影門とその外側に位置する仁王出口惣門の内外にも屋敷街が構成されているほか、北西・赤川惣門の外、足軽同心組丁へ通じる区域にも配置していた構図が見える。しかし、盛岡城下がどのようにして完成に向かったものか、その過程は皆目分かっていないのが残念である。
■ 「元文図」「寛延図」が作成された背景
しかし、その後も休むことなく進展して行ったことは、現在、盛岡市中央公民館に収蔵されている「元文図」「寛延図」などの存在によって垣間見ることが出来る。
『参考諸家系図』に基づき、正保以降の新規召し抱え数を集計すると重直代には諸士百九十九人、足軽等百三十一人、(一カ年平均九・七人)。重信代には諸士四百八十六人、足軽四百三十九人、(同三十三人)を数える。
伴って、帷子小路や平山小路、その他諸士町など、新たに町割りが進み(いずれも召し放しは考慮していない)、改訂版とも言うべき絵図が作成された。
『雑書』正保四(一六四七)年五月二十八日条には「御内丸・仁王・上田・本三戸町・桜馬場方御屋敷、何も今日下され出入りの屋敷三十八軒、御絵図に御付紙」、『南部家諸役人心得手控』御絵図改直御物書の項の元文元(一七三六)年十月十四日条には「御屋敷図改直候様仰せ出され、これによって物書御徒一人、明朝十五日朝五ツ(午前八時)より御中丸え相詰め、屋敷御奉行中え申し出で候様仰せら渡されべく候」とあることによってもその背景が傍証されよう。
ちなみに、「元文図」は散見する諸士の氏名から元文元年閏十一月を上限とし同年十二月を下限とした絵図であること。同様手法によって「寛延図」は寛延二(一七四九)年正月の状況を伝える絵図であることが確認される。
■ 諸士丁の丁名改
文化三(一八〇三)年の『諸士屋敷地並建屋図面書上』には横丁、裏丁等を含めて五十二丁名を記録しているが、同十年三月二十六日にはその内十四丁で丁名改称(「御家被仰出」)がなされている。
平山丁を平山小路・帷子丁を帷子小路・三戸丁を日影御門外・仁王丁を仁王小路・仁王新丁を仁王新小路・四ツ家袋丁を谷小路・新山堂を新山小路・上田門前丁を上田小路・与力丁を上田与力小路・馬場丁を馬場小路・外加賀野御徒丁を外加賀野・川原丁を外加賀野裏・川原小路を中ノ橋河岸・紙丁袋丁を橋留河岸。
|
|
|
|
|
|
|