■東西論争の真意?
仙台戊辰史・防長回天史とも、その資料的価値は高く評価され、現在でも研究者の必読の書とされており、藤原相之助と末松謙澄の両者に対して敬意が払われている。
しかし世良の評価に関する問題に限ったことであるが、仙台戊辰史には筆誅(ひっちゅう)と取られかねない部分があることが問題であるし、またわざわざこの問題を中心とした追加別巻まで出している。
また防長回天史の方は、仙台戊辰史の世良に関する部分に対する反論に相当のページ(大冊であるので多いとは言えないという意見もあろう)を費やしている理由が理解し難いのである。
世良暗殺事件が東北戊辰戦争史上それほど重大なことであろうか。東北戊辰戦争の起爆剤(注4)とまでは言えなくても、一転機あるいは〓火に注がれた油〓の役割を果たしたことまでは否定しないが、世良の立場は鎮撫総督府参謀と名は厳めしいが、しょせんは薩長藩閥政府の方針に忠実な末端の一員にすぎない。
世良暗殺事件は、東北戊辰戦争の本質や性格とは関係ない一事件であるというのが私の考えである。
ただし、会津藩との連携を前提に、薩長と対決の方向に傾きつつも、藩総論として和(会津藩宥恕嘆願一筋)戦どちらにも決まっていなかった仙台藩としては、藩を挙げての意識統一と、藩士の士気高揚の点では意味があったことは確かであろう。
批判のあることを覚悟のうえで言えば、仙台戊辰史・防長回天史のどちらにも言えることであるが、末梢的問題を徹底的に検証することによって、著書全体の正確性を顕示しようとしたのであろうか。
もちろん、お互いの立場、敗者東北の代表と勝者西国の代表という立場が、その論議の前提にあったであろうことを当然としての意見である。
この論争の時期は、敗者盛岡藩出身の宰相原敬が登場する前後のことである。
「戊辰戦争は政見の異同のみ」というのは、大正6年に盛岡市北山報恩寺で行われた戊辰戦争殉難者50年祭で、翌大正7年に総理大臣に就任する原が読んだ祭文の中核である。
当時防長回天史の編者末松謙澄はすでに亡くなっていたが、仙台戊辰史の著者藤原相之助は存命であった。
原の祭文を読んだとしたらどのような感慨を持ったであろうか。
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【注4】起爆剤
戦前の日本の大陸侵攻のキッカケになった事件には、現地日本人居留民や現地駐屯日本軍関係者の被害(殺害)に関するものが多い。
それらの事件の全容解明において、事件の発端になった被害者側の挑発的行為や加害者側の弁明など含めた、事件の本質的・根源的問題には触れていないことが多い。その理由は不明であるが、たいていの事件は起爆剤としての役割、つまり武力介入の口実になっている。
前に世良暗殺事件を東北戊辰戦争の起爆剤と書いたことがあるが、改めて考えてみると、仙台藩としては起爆剤=士気高揚剤としたかったようであるが、世良の立場などからすると起爆剤とまで言えるか疑問である。
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