ただ一度生れ来しなり「さくらさくら」歌ふベラフォンテも我も悲しき
島田修二
春、桜というとこの歌を思う。昭和35年、60年安保の年に初来日の米黒人歌手ハリー・ベラフォンテのステージ。歌手活動と並び、彼の人種差別に対する怒りや黒人の地位向上に心を注ぐ姿勢と、島田氏自身のアメリカに対する感情が交錯して複雑に揺れる。昭和3年横須賀生まれの氏は17歳で江田島海軍兵学校に入学、広島の原爆投下を目撃する。しかし戦後15年、敵国の歌手の歌ではあるけれど、アンコールで歌った「さくらさくら」の旋律は「ただ一度生れ来し」命の器として熱いものがこみ上げる。島田作品の代表作である。
終戦後、19歳で北原白秋の「多磨」入会。東大卒業後読売新聞社に入社、大岡信氏と同期。28年、「コスモス」創刊に加わる。「横須賀の丘に吹く風いちにんのいのちの重み世界に告げよ」「サラリーの語源を塩と知りしより幾程かすがしく過ぎし日日はや」「足を病む汝(なんじ)が三輪車の影曳(ひ)きてかく美しき落日に遭う」戦後の社会情勢、新聞記者としての激務、家族愛等々胸にしみくる作品が多い。
年々仕事も創作活動も多忙を極め、「歌にては生計立たぬかと問はれ立たぬと答ふ立てんと思ふ」というような葛藤を経て51歳にて退職。61年、宮柊二のあとを受けて朝日歌壇選者となる。やがて63年「コスモス」を離れる。
このころ「わが裡(うち)にわが知らぬこと起こりゐて確実に死へ向きて進める」「死にゆける者常に他者みづからの丈(たけ)くらぐらと渚(なぎさ)にうつす」といった内面の昏(くら)さも詠まれるようになった。
平成16年9月12日、自宅で脳出血にて死去、享年76。あの時の衝撃、机上のスナップ写真のほほえみが返らぬ時を封じこめて切ない。同年6月中央誌に氏の「オホーツクの藍(あい)色がいいまた来るさいいものはいい幾度でも来る」が載り、なんという自在な世界と感銘した。ジャーナリストとしての時代感覚と歌人の激しい生を湛(たた)えて、また桜の季節が巡ってきた。
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