■ 〈古文書を旅する〉工藤利悦 南部家へ上使再び立つ
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■上使をもって御暇御拝領再び始まること
第三十四代利雄(としかつ)公、明和四(一七六七)丁亥年四月十六日御在所への御暇(いとま)上使、御使番阿部助九郎(安倍信方)様、西御丸より横田三四郎(松春)様をもって仰せ出ださる。以来右の通なり。
この節両御丸より御拝領物これあり、ただし、右上使は重直公御代・寛永十五(一六三八)戊寅年十二月より相止まり、明和四年まで百三十年になる。
山城守重直公以来、上使御暇相止まり候ところ、このたび利雄公四品に任ぜられ候以後、初めて上使をもって御暇仰せ出ださる。この儀御中興のところ、今度以後、御暇の節ばかり成し下ださるなり、もっとも、御鷹の雁御拝領の上使は御代々様が御在府の節これあることなり、利雄公明和三年十二月十九日四品。(『篤焉家訓』)
【解説】諸大名は江戸幕府に勤仕。江戸城及び江戸城下の警備を帯びて火の廻り番などを勤番した。
慶長二十(一六一五)年の武家諸法度は、諸大名の参勤に際しての従者の員数を明文化し、元和三(一六一七)年の武家諸法度は交代制と参勤時期を定めている。
具体的には、隔年交替で東国の諸大名が江戸にあるときには西国の諸大名は御暇を得て帰国し、西国の諸大名が江戸にある時には東国の諸大名が帰国する制度であった。
例えば、大名武鑑により仙台伊達家を見るならば、参府年は、「丑卯巳未酉亥」、御暇年は、「子寅辰午申戌」の年とあるのに対し、同家の分家、伊予宇和島(十万石)伊達家の場合、「丑卯巳未酉亥」は御暇年、「丑卯巳未酉亥」は参府年と見えるのはその例である。ちなみに、この頃の南部家は宇和島伊達家と同じ年に江戸へ登り、同じ年に帰国するもので、東北諸藩の大名とは行動を別にしていたことが知られる。
その理由は、北地警衛の任を帯びた南部家(二十万石)及び弘前(十万石)津軽家は、オランダ人が居留していた長崎の出島を警衛する筑前福岡(五十二万石)黒田家と肥前佐賀(三十五万七千石)鍋島家の両家が隔年交互に参勤していた例にならい、各々が帰国を確認した上で参勤していたためである。
この外、常陸水戸(三十五万石)徳川家や出羽秋田新田(二万石)佐竹家、陸奥守山(二万石)松平家など常府と称して帰国することのなかった家などの異例もある。
なお、その制度に附随して大名諸家の家格に対応し、幕府から上使が立つ家とそれがない家の別があった。上使が立つ家であっても、参府・御暇の別なく立つ家と、どちらか一方にのみ立つ家の別があり、また、上使として老中が立つ家と奏者番が立つ家、使番が立つ家の別があった。
ここに見る記録は、中古以来途絶えていた南部家に対する上使が、三十四代利雄の代、明和四年に百三十年ぶりで復活した慶事を伝えるもの。これは前年十二月十九日に利雄が四品に叙せられたことに伴う処遇であったとみえる。
これを先例として翌年からは参府においても使番が立てられ(『御世系』)、三十六代利敬代の文化六(一八〇九)年からは御暇上使は奏者番と替わり、翌々七年以降は参府・御暇上使、双方ともに奏者番となる(『御系譜』)。
推して前年・同五年に高二十万石へと高直りがあり、国持大名に列せられたための処遇であろうか。さらに同十二(一八一五)年からは参府・暇上使ともに老中となり(『御系譜』)廃藩に及んだ。『武家鑑要』は上使を迎える諸家を次のように伝える。
◎[参府暇ともに御老中]三家(尾張名古屋徳川家、紀伊和歌山徳川家、常陸水戸徳川家)、越州(越前・福井三十二万石松平家)、加州(加賀金澤百二万石前田家)、薩州(薩摩鹿児島七十七万石島津家)、奥州(陸奥仙台六十二万石伊達家)、肥後(熊本五十四万石細川家)、筑前(福岡五十二万石黒田家)、芸州(安芸広島四十二万六千万石浅野家)、長州(長門萩三十六万九千石毛利家)、佐賀(肥前佐賀三十五万七千石鍋島家)、備前(岡山三十一万五千石池田家)、因州(因幡鳥取三十二万五千石池田家)、阿州(阿波徳島二十五万七千石蜂須賀家)、土州(土佐高知二十四万二千石山内家)、津(伊勢津三十二万三千石藤堂家)、久保田(出羽久保田二十万五千石佐竹家)、雲州(出雲松江十八万六千石松平家)、米沢(出羽米沢十五万石上杉家)、津山(美作津山十万石松平家)、久留米(筑後久留米二十一万石有馬家)、宇和島(伊予宇和島十万石伊達家)、盛岡(二十万石南部家)。
◎[参府御奏者 御暇御老中]宗対馬守(対馬・府中十万石)
◎[参暇共御奏者]立花左近将監(筑後柳川十一万九千石)、丹羽左京太夫(陸奥二本松十万石)、津軽越中守(陸奥・弘前十万石)
◎[参暇共に御使番]松平淡路守(越中富山十万石前田家)、松平隠岐守(伊予松山十五万石)、松平越中守(陸奥・白川十一万石)
◎[参府御使番]松平肥後守(陸奥・会津二十三万石)、井伊掃部頭(近江彦根三十五万石)、松平讃岐守(讃岐高松十二万石)、松平下総守(伊勢桑名、後武蔵忍十万石)、酒井雅楽頭(播磨姫路十五万石)、奥平大膳大夫(豊前中津十万石)
◎[暇御使番]松平大和守(武蔵川越十五万石)、松平中務大輔(美濃高須三万石)、松平左兵衛督(播磨明石六万石)
■ 上使を迎える
『奥瀬家日記抜書』は上使到来以前の次第。明暦三(一六五七)年正月二十三日条に「御用之儀候間家来一人御城へ上り申すべく由、二十二日松平出雲殿・安藤右京殿御切紙申し参る」により留守居が登城。その場で「近日御暇遣わさるべく候間、その支度なされ候ようにと御老中の内意」を告げられ、併せて藩主自身による老中への御礼参りは不要と申渡されたと記録。同二十六日条には前日の差紙到来により留守居が再び登城。「いよいよ御暇遣わされ候はん間、家来の衆を段々先に下し候ように」との下命があり、同二十八日藩主が登城して将軍家に御暇の御礼を申し上げ、二月四日仙台城主伊達忠宗等と共に暇を給う(『徳川実紀』)、同十日江戸出発と留めてある。関連するしきたりは『我覚集』等に詳しい。
一方、明和四年のことは三月十日御暇上使の到来。併せて将軍家より巻き物二十・白銀三十枚、世子からは巻き物十の賜物があり、同月十七日に明日登城すべしの差紙を請けて十八日城中で御暇御礼を申し上げ、退出して老中はじめ上使を勤めた人達、その他関係者へのあいさつ・御礼口上のため廻勤したことなどの行事が連なる(『書留』)。
後世の記録ながら文化十(一八一三)年『利敬公御在府留』により補足するならば、初めに南部家より帰国のための暇願いに関する内伺の過程を経て「御暇願」を提出。これに伴って許可の旨を告げる上使が到来、書面で以て御請する旨を伝える。上使が立ち帰り後のあいさつ・御礼のための廻勤は同じ。
後日老中差紙を以て登城の下命があり請書を提出、翌日登城して御暇御礼を申し上げる。その他大まかな行事は『書留』に同じが恒例の次第であった。
◇
留守居を勤めた瀬山命助の『思出草』は、参府・暇等の上使を送迎する作法に触れて「これまで上使これ有る砌、白州へ送迎の諸有司、晴雨とも草履用いることなく、雨天にても手傘を用いることなき事に思い居しなり、もし雨天の砌傘も草履も用いざらんには白州より殿上入りて着服改むる間なきなり」とし、それでは殿中が泥まみれになるのではないか。との疑問をはさみ、諸藩の留守居を介して聞き込みに当った。結果として諸家ともに草履も手傘も使用している事を確認。その後、自身の在職中に上使を迎える事態はなかったが、他家に倣い改善されたこと。その際の所作などを記録している。
総じて言えることは、この時代に先例を超える破格の儀式は「御家の規模」と表現されているが、これに過ぎる慶事はなかった。しかし、南部家に上使が立つことが中断せられて以来、四品に叙せられた藩主は二十九代重信(天和三=一六八三=年五月)と三十代行信(元禄十二=一六九九=年十二月)三十三代利視(寛延三=一七五〇=年十二月)が出たにもかかわらず、その処遇は受けていない。利雄代に至って復活を見た理由は当然あったはず。対象となった具体的な功績とはいったい何だったのだろうか。疑問は残るものの、後考を俟たなければならない。 |
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