| |
|
|
| |
 |
|
| |
今回出土した並尾羽双鶴文 |
|
盛岡市本町通の光照寺の本堂と庫裏の改修工事に伴う06年度の調査で、盛岡藩の定紋である向鶴文(むかいつるもん)が入った燻(いぶし)瓦・赤瓦が28点出土した。光照寺のあるこの地区はかつて盛岡城の一番外の堀の内側にあった遠曲輪という領域。出土の瓦は17世紀終わりから19世紀中ごろにかけてのもので、当時、この地区にあったといわれる藩の御用窯の存在を証明することになると、盛岡市教委は話している。
天保4年(1833年)に書かれた『盛岡砂子』によると当時、この遠曲輪に花屋丁惣門があり、その惣門の西側には御用窯である寺町窯(よう)があったという。
遺跡の学び館の佐々木亮二文化財主事は「明治維新後に外堀を壊し埋める際、内側にあった窯も壊され、一緒に瓦や雑器を埋めたのだろう。今回の調査でこれまで伝承だった寺町窯の存在が明らかになった」と話している。盛岡市内ではこれまで、瓦は盛岡城跡からしか出土していなかった。
出土したのは広く知られる軒丸(のきまる)瓦で、時代は17世紀終わりから19世紀中ごろにかけてもの。17世紀終わりから18世紀初めのものとみられるのは粒羽双鶴文(つぶばねそうかくもん)。向鶴の羽が粒のような模様になっているのでそう呼ばれている。
出土した骨羽(ほねばね)双鶴文は19世紀初めから中ごろもので、羽が骨のように細い線で作られている。並尾羽(なみおばね)双鶴文の一つには、黄色く着色して焼き、金ぱくを模倣したと思われるものある。
向鶴文の入った瓦は藩直営の御用窯のみが作ることのできる。寺町窯は紫波にある御用窯川原毛窯が閉鎖した後、創設されたものだという。
佐々木文化財主事は「当時の窯跡は10基ほど知られているが、御用窯跡からこれほど出土した例はまれ。今後の発掘で、これがどのような意味を持って来るのか期待したい」と話した。
|