2007年 4月 9日 (月) 

       

■  〈続・岩手人の見た戊辰戦争〉14 和井内和夫

 第三章 九条鎮撫総督の秋田転陣

   ■はじめに

  薩長藩閥政府の東北侵攻軍総司令官である九条奥羽鎮撫総督が仙台を去り(正確には逃げ出し)、盛岡藩領に入ったのは明治元年5月27日である。

  公卿参謀として総督に随行していた醍醐忠敬(注1)のその時の感想が残されている。

  「仙台(藩)老臣以下兵士等皆去る。始めて虎口を出るの思いをなす」。仙台藩がよほど怖かったことがうかがえる。

  九条道孝が奥羽鎮撫総督に任命されたのは3月26日である。その前の2月9日に沢為量が総督に任命されていたが、それを副総督に格下げして九条に代えたのである。それに伴ってそれまで副総督であった醍醐忠敬も参謀に格下げになっている。その理由は明らかではないが、討伐対象に当初の予定になかった庄内藩が加わったことにより、陣容が強化されたのではないかと考えられる。

  ちなみに当時九条は弱冠29歳、醍醐に至っては19歳であったが、沢は分別盛りの40代である。

  九条鎮撫総督の仙台入りまでの動向は次のとおりである。
3月2日 京都出発

   11日 大阪出帆

   18日 松島湾到着 (大阪からの所要日数七日)

   23日 仙台入り

  九条鎮撫総督が仙台入り当時引き連れていた随伴兵は、薩摩藩128名、長州藩136名。筑前藩136名、その他180名、合計580名であった。

  九条鎮撫総督が仙台を逃れるまでにはいろいろな経緯があった。
 
  ■九条鎮撫総督の東北入りと仙台藩の対応

  薩長が実権を掌握した京都新政府から、仙台藩に対し1回目の会津征討命令が出されたのは、鳥羽伏見の戦から間もない1月17日であるが、その内容が仙台藩から自発的に願い出たという形であったため、仙台藩の異議により修正再発されたのが1月24日である。

  新政府のこのやり方はなんともお粗末であるが、その理由ははっきりしない。このやりとりはどちらも京都でのことである。

  九条鎮撫総督の仙台入りの目的は会津征討命令の督促と督戦のためである。引き連れていた600名程度の兵力では、会津藩を攻略することは不可能なことは分かりきったことであり、実際の会津攻撃戦力としては、仙台藩をはじめとする東北諸藩を当てにしていたわけで、これは昔から西国勢の常套(とう)手段である「夷をもって夷を征する」の策である。

  ただし、この時点では庄内藩に対する征討命令は出ていない。薩長両藩とくに薩摩藩としては、江戸における庄内藩の薩摩屋敷焼き討ちの件があり、会津藩同様征討するつもりであったが、なんとも理由づけられないでいたのである。

  それ以後の仙台藩の対応を時系列に並べると次のようになる。
3月25日 九条鎮撫総督各藩兵の操練を観閲

   26日 九条鎮撫総督会津進攻を命令
4月6日 仙台藩、静岡在の東征大総督に対し建白書(会津藩宥恕・和平策)を提出するも門前払い

   11日 仙台藩出陣の儀

   16日 宥恕斡旋のため会津藩との折衝開始

  閏4月1日 仙台・米沢・会津三藩首脳謝罪問題協議

   8日 仙台・米沢・会津三藩による最終嘆願書(斡旋案)決まる

   11日 白石列藩会議(嘆願まとめ)

   12日 仙台・米沢両藩主 九条鎮撫総督に会津寛典を願い出る

   15日 会津攻撃軍解兵

   17日 九条鎮撫総督嘆願書却下を通告。早々の会津進攻を命令

   19日 福島軍事局設置 総指揮官仙台藩坂英力

   20日 世良修蔵暗殺
5月3日 仙台盟約(奥羽越列藩同盟)

   14日 仙台藩九条鎮撫総督の盛岡経由秋田行きを了承

   18日 九条鎮撫総督仙台を発ち盛岡に向かう
7月2日 輪王寺宮仙台入り

   11日 庄内・仙台両藩兵と秋田久保田藩兵戦端を開く

   17日 白石公儀府設置

   下旬 仙台藩主戦派但木土佐更迭
8月26日 仙台藩帰順方針決定
9月15日 仙台藩降伏(10日説あり)同盟崩壊

     ◇   ◇

  【注1】醍醐忠敬

  奥羽鎮撫総督府の参謀になったのは19歳である。いくらお飾りとしてもこの年齢は異例であろう。
  戊辰戦争では仙台・福島・盛岡・秋田・弘前と転戦、移動した。戦後の論功では賞典禄600石従三位。元老院議員を務めた。 

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