2007年 4月 10日 (火) 

       

■  〈寄稿〉前田一利 北郡山地名考

 全く予備知識のないまま転居した私が、矢巾町の地名の中に北郡山があったので、どういう意味があるのか聞いたところ、@郡山(紫波町)の北の部落だから。Aそして郡山地名は、南部氏が斯波氏を滅ぼし、高水寺城を郡山城に改めたことによると、優しく教えてくれたが、この珍しい地名は、単に北だからというだけだろうかと疑問が脳裏をよぎり、以後矢巾町史、紫波郡誌などの資料を借りることにした。

  820年頃の大日本史国郡志の中に「郡山有徳田村云々」とあり、要するに郡山は徳田村にあるの明記である。

  郡山とは往昔郡衙(ぐんが)の地名で、最初は志波城下のもので、後に徳丹城下に遷(うつ)る。徳丹城は弘仁2年(811)建立され、9世紀後半には衰退したようであるが、郡山はその後もながく存続されたと思われる。郡山地名は、今の北郡山で徳田村のうち、日詰町の西北、即ち陣ケ岡の北であると。

  また、現郡山は文治(1185〜1189)の頃、比爪と言い、天正(1573〜1591)まで高水寺と言った。その後南部氏がこの地を領するに至って、高水寺城を郡山城と改め居城した(1593)ことを受けて、これまでの郡山地名は北郡山地名になったと説かれている。

  ところが一方@天文6年(1537)和賀氏などが志和郡郡山で合戦とある。(これは和賀町史にも同様記載されている)をみると、高水寺城が郡山城と改められる以前から、現日詰が郡山と呼ばれていたとみられること。
A南部氏が高水寺城を郡山と改めた文禄2年(1593)以前、まだ斯波氏の地を支配していなかった時、戦国武士が北郡山の本拠地に北郡山兵庫、北郡山大膳の両氏が斯波氏の家臣として赴いていたとすること。
B元亀3年(1575)飯岡城の攻略に北郡山氏が参加したと志和郡戦記に記されていること。
C紫波町史奥南落穂集に、斯波氏没落当時(天正16年・1588)斯波家臣団として主家に離反した中に北郡山兵庫、大膳の両氏があることは、南部氏の郡山城攻め以前から、北郡山地名が使われていたとみられること。
D奥南旧指録は、天正16年(1588)…故に郡山高水寺の御所には人少なにして(略)と。篤焉(えん)家訓は、天正の頃郡山、日詰、高水寺の住呂(略)一夜の会評議して郡山日詰に帰り、とあること。

  更に、郷土矢巾町の藤原儀助氏にいたっては、「長慶天皇ノ御陵ニ付」と題して、昭和15年宮内省に御閲読あらんことを切に恭しく伏して希望し奉るとした提出文書の中に、「御所殿とて郡山に御座所あり(略)明徳元年(1390)南北御両朝合一となり数年の後、郡山(天正以前の郡山)なる当白山に長慶院法皇が御座所を御定め給う。(略)法皇崩御し給うや幾年も経ずして当白山御所殿は湮(いん)滅となる。(略)天正20年(1592)(略)比爪即ち郡山に山城なる高水寺城の他に平城ありしこと、ここに明らかで(略)平城たりし地は、由緒書に記載ありし御所殿の地たるべきこと明らかで、古舘村大字中嶋鷲内に接近せる戌(いぬ)松の地たりしこと、なお形蹟上また明らかなしはこと(略)」

  こうした諸記録から
@北郡山は、数百年にわたって「郡山」地名として歴史的に重要な役割を果たし、また安易に否定しきれない豊かな伝承、伝説も生んできたこと。
A南部氏が紫波の地を支配し、高水寺城を郡山城と改める以前に、既に現郡山と北郡山地名が使用されていたこと。

  それがともすれば、南部氏が高水寺城から郡山城への改名を、同時に周辺地域一帯をも含めたものと誤解してとらえたことによるのではないだろうか。また、誤解を助けたことの大きなものに、北郡山兵庫や北郡山大膳などの地頭記述はあっても、それは断片的、散見であって「町内の地名を冠する地頭」や「斯波諸臣、志和御所配下の諸士地頭」の項の中には、北郡山兵庫や北郡山大膳が列記からはずされ、影の薄いものとなっていたことも否めないように考えられる。

  いずれ北郡山の地名は、現郡山の方位上の便宜的なものとのみとらえるのではなく、過去の郡山としての歴史、伝承などの重みを包蔵されてのものとして、絶やすことなく大事にし、吟味を重ね後世へと引き継がれたいものである。
(矢巾町地名愛好者)

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします