2007年 4月 13日 (金) 

       

■  〈古文書を旅する〉162 工藤利悦 利見公四品に叙せらる

  ■利視公四品に叙せらる

  午十二月二十七日御老中様御連名の御奉書御到来、御位階の御礼二十八日これ仰せ上げられ、右に付き御献上物

  一、御太刀馬代黄金十両

  一、沙織  五巻

   補注 午十二月十八日御登城遊ばされ候ところ、四品に仰

   せ付けらる旨、御老中御列座、御白書院にて酒井左衛門尉

   様仰せ渡さる

  同二十九日御位階に付き、京都所司代へ口宣の御奉書、酒井左衛門尉様御用番より御渡成され、御留守居吉田友右衛門参上し、これ請け取る。未正月二日屋形様御狩衣を召しなされ御登城、年始御礼これ仰せ上げらる。御盃を御頂戴、御時服二を御拝領す、午の刻御退出遊ばされ、この節の御供ならびに役割

  御刀番 漆戸玄蕃、同富田柵野右衛門、松田友之丞

  右は布衣を着用、尤も友之丞事、御刀番にはこれ無く候得共、行信公の御時節、友之丞の祖父友之丞が御刀番を相勤め候ゆへ、御吉例を以って玄蕃・柵野右衛門へ指加わえられ候由

  御駕篭脇 永田 進 小本新右衛門 田鎖与惣 藤村謙吉

  川井九蔵 金矢丹治

  右は素袍長袴

  御鞘巻之御太刀、御先例の通為御持ちなし成さる、途中は素襖これ着用。御駕篭脇これ持つ、下馬よりは布衣着用し御刀番の者これ持つ。補注 麻上下・服紗小袖・御先供手代り共に白張着用之人数

  御挟箱  手代り共に 四人 参内傘 手代り共に 二人

  御蓑箱  同 二人  御跡挟箱 同 四人

  御立傘  同 二人  御草履取 同  二人

  御馬口取 同 四人 御馬柄杓・沓箱持共に麻上下を着用

  押同心       押 三仕限り

  御供馬二疋     御供鑓二本

   但、御供馬御供鑓は午十二月十九日之御書出る

  京都へ口宣口の奉書御登ぼせ成され候御使者、御者頭佐藤左治に仰せ付けられ、御使者へ御側より斗内萬を指添え御登ぼせ成される、ただし左治こと年若に御座候に付仰せ付けられ、未正月四日江戸表出立仰せ付けらる。右の通江戸より申し来る

  午十二月二十五日夜子下刻(午前一時頃)御飛脚到着、翌二十六日惣御触れ出る。屋形様御儀、江戸表にて去る十七日御奉書御到来、翌十八日御登城遊ばされ候所、御白書院にて御老中様御列座、酒井左衛門尉尉様四品成りに仰せ渡され候。これによって来正月元日御目見相済み退出のみぎり、御新丸御広間へ御歓御帳を相出し候間、御歓び申し上げられ候、(中略)

  寛延四年未五月三日利視公には御下向、早速下小路稲荷大明神并びに御仏詣遊ばされ、共に御束帯御格式なり、諸士在町共に拝見群集す(「篤焉家訓」)

 【解説】

  大名の官位は幕府の許可と奏請を経て朝廷より叙任されるものであった。五位の者については、幕府の高家が年頭慶賀のため参内した折、その叙任の位記・宣旨を一括して受領し持ち帰り、江戸にて交付した。

  四位以上は幕府老中から京都所司代に宛てた、官位奏請の奉書を該当する大名へ交付し、その大名から使者を所司代に立てて、許しを経た上で、朝廷の武家伝奏から位記・宣旨を受け取る手続きであった。

  ここに見る記録は、寛延三(一七五〇)年、南部家三十三代利視が従四位下に叙せられた際の次第一端を書き留めている。参考までに、南部家歴代および大名諸家の先途(せんど・極官)を示す。

  ■ 南部家歴代の先途

  「寛政重修諸家譜」「御系譜」により

  ○信直

  ○利直 文禄四(一五九五)年従五位下 寛永三(一六二六)年八月十九日従四位下

  ○重直 元和四(一六一七)年従五位下 寛永九年十月家督

  ○重信 寛文四(一六六四)年十二月跡式 従五位下 天和三(一六八三)年五月七日従四位下

  ○行信 寛文六(一六六六)年十二月従五位下 元禄五(一六九二)年六月二十七日家督 元禄十二(一六九九)年十二月十八日従四位下

  ○実信 行信嫡子 元禄五(一六九二)年十二月十八日従五位下 元禄十三(一七〇〇)年十二月二十九日父に先立ち部屋住で死去

  ○信恩 元禄十四(一七〇一)年十二月十八日従五位下 元禄十五年十二月十五日跡式

  ○利幹 宝永五(一七〇八)年閏正月五日跡式 同年十二月十八日従五位下

  ○利視 享保十(一七二五)年七月二十一日跡式 同年十二月十八日従五位下 寛延三(一七五〇)年十二月十八日従四位下

  ○利勝 元文四(一七三九)年十二月十六日従五位下 宝暦二(一七五二)年五月二十五日跡式 明和三年十二月十九日従四位下
  ・利謹 利雄嫡子 宝暦十一年十二月十八日従五位下 安永三(一七七四)年十一月十八日廃嫡

  ○利正 安永三年十二月二十八日従五位下 安永九年二月七日跡式

  ○利敬 天明四(一七八四)年七月十七日跡式 五歳 代々柳間に伺候し、位階従四位下にすすめば大広間に侯す、寛政八(一七九六)年十二月十九日従五位下 文化元(一八〇四)年十二月十六日 古例によれば四位昇進は年四十以上であるが、蝦夷地警衛の功により特に栄進。文化五(一八〇八)年十二月十八日高二十万石に増嵩、侍従にすすむ。明治四十一(一九〇八)年九月二十日従三位を追賜

  ○利用 文政三(一八二〇)年九月二十四日跡式 文政四年十二月十六日従四位下

  ○利済 文政四年十二月二十五日四品 文政十(一八二七)年十二月十五日侍従 天保十(一八三九)年十二月二十八日少将

  ○利義 天保六(一八三五〇)年十二月朔日従四位下 嘉永元(一八四八)年六月家督

  ○利剛 嘉永二年九月家督 同年十二月十二日四品 文久元(一八六一)年十二月十六日少将

  【補足】

信直の官位について、『南部史要』は天正十五(一五八七)年に従五位下大膳大夫に叙任とあるが、『増補国統年表』は天正五年叙四品任信濃守(初従五位下大膳大夫)とある。しかし、南部家より提出して幕府がまとめた『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』所収「南部系図」には、いずれにも信直の叙任記録はない。史実はいかがなものだろうか。四品とは四位の唐風の呼称である。

  ■ 諸大名の先途 拠「武家鑑要」

  ◎[御三家]尾張 紀伊 水戸 御嫡徳川を称す。二男松平

  尾張、紀伊 初官従三位左中将より従二位大納言まで、水戸 正四位下左少将より従三位中納言まで

  ◎[御三卿]田安 一橋 清水 徳川を称す。初官従三位宰相より中納言・大納言まで

  ◎[御三家の庶流]松平讃岐守(水戸連枝、讃岐高松)従四位上少将まで、松平中務少輔(尾張連枝、美濃高須)四位上少将まで 松平左京大夫(紀伊連枝、伊予西条)四位上少将まで、松平大学頭(水戸連枝、陸奥守山)侍従まで、松平播磨守(水戸連枝、常陸府中)侍従まで、松平大炊頭 (水戸連枝、常陸宍戸)諸太夫(従五位下)

  ◎[越前(松平)家]福井(越前福井)初官従四位上侍従より、(美作)津山従四位下侍従より、松平出羽守(出雲松江)従四位上少将まで、松平大和守(武蔵川越)従四位下侍従より、松平左衛門督(播磨明石)四品まで、松平佐渡守(出雲広瀬)・松平日向守(越後糸魚川)・松平志摩守(出雲母里)右三家朝散大夫

  ◎[四家 溜之間詰] 松平讃岐守(讃岐・高松)、松平肥後守(陸奥会津)、松平下総守(伊勢桑名)、松平越中守(陸奥白川)

  ◎[桑名家]松平隠岐守(伊予松山)従四位下侍従より、松平越中守(陸奥白川)四品まで、松平采女正(伊予今治)・松平相模守(下総多古)二家朝散大夫

  ◎[三家]奥平大膳大夫(豊前中津)四品まで、松平下総守従四位下侍従まで、大久保加賀守(相模小田原)四品まで
 
  ◎[初官正四位下左少将]加賀前田家

  ◎[初官従四位下侍従]薩摩島津、仙台伊達、肥後(熊本)細川、因州(因幡鳥取)池田、会津松平、彦根井伊、高松松平、西条松平、高須松平

  ◎[初官従四位下 家督元服侍従]芸州(安芸広島)浅野、筑前福岡黒田、岡山池田、長州(長門萩)毛利、肥前佐賀鍋島、伊勢津藤堂、出羽久保田佐竹、阿州(阿波徳島)蜂須賀、土州(土佐高知)山内、対州(対馬府中)宗、筑後久留米有馬、盛岡南部、雲州(出雲松江)池田、出羽米沢上杉、宇和島伊達、松平大学頭(陸奥守山)、松平播磨守(常陸府中)

  ◎[家督以後四品侍従]武蔵川越松平、越中富山前田、加賀大聖寺前田

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