■ 〈あのころぼくはバンドマンだった〉49 北島貞紀 カケモチは2度うまい
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■ 1981年
大阪市北区堂島、通称「北新地」は、夜の始まりとともに活動を開始する。そして深夜0時にそのピークを迎える。高級クラブが店をクローズし、送りだされた客と見送りのホステス、送迎の車やタクシー、次の店に向かう酔客が、いっせいに街に繰りだす。
クラブやスナックだけではなく、花屋や高級ブティック、靴屋、帽子屋、飲食店が煌々(こうこう)と灯(あか)りをともし、そのにぎわいは昼の心斎橋筋と変わらない。まるで毎日がお祭りの夜だ。
最初、異様に感じたその風景も、もうすっかりなじみのものになった。新地にきてから3年になろうとしていた。音楽の世界で生きてゆこうと決意したものの、思うように上達しない。ちょくちょく壁にぶつかり、落ち込みを繰り返していた。
ミストーンを連発しては、ため息をつき「医者なら、患者を殺しているな」とか「飛行機の操縦士なら墜落だ」とかわめきながら、「ピアノ弾きで良かった、恥をかくだけで済むのだから」と変な理屈で自分を納得させていた。
それでも相応のギャラをもらい、昼は教室で教えていた。われながらイイ根性をしている。
そのギャラを払ってくれるクラブ「パルテノン」には、すぐ近くに姉妹店があった。僕らの店はピアノトリオで、演奏オンリーだが、姉妹店のほうは客に歌わせる。
まずパルテノンで高級な雰囲気を味わってもらい、次はリラックスして歌でもどうぞという、一度で二度おいしい商法だ。
その姉妹店の「ピアノのセンセイ」が急にやめてしまって、急きょ仕事が回ってきた。いわゆる「カケモチ」というやつで、二つの店で交互に演奏する。休憩時間なしだが、一方がジャズやポピュラーで、もう一方が歌謡曲のウタバンとやることが異なるので楽しい。
なによりも、僕たちにとっても一度で二度おいしい。ギャラが2倍とはいかないがそれ近くになった。僕たちは、ギャラの出る日に、新地にある有名料理店で食事をすることにした。
ベースのケン坊が昼の仕事をやめて以来、彼とはますます一緒に行動することが多くなった。帰りが同じ方向なので、飲みにゆく回数も増えた。曽根崎のスナックには、週1回は顔を出し、お得意さんになった。ケン坊は、酔ってくると「キタヤン、演歌歌ってもええか」といって、なぜか「加賀の人」とか「風雪流れ旅」とか北島三郎ものを歌うのだが、これがめっぽううまい。ひょっとしてジャズより演歌が好きだったりして。
さて、ギャラが増えて気の大きくなった僕たちの小さな冒険。
「いっぺん新地のスナックで飲んでみよか」
さもないスナックに行って、さもないボトルを1本入れ、さもない女の子2人とオハナシ。
「オアイソして」
「4万8千円です」
「曽根崎やったら、4回は行けたな。イイ勉強になったわ!」
(ミュージシャン・株式会社ショップボックス相談役)著者ホームページhttp://www.smilecats.com/ |
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