■ 〈古文書を旅する〉165 工藤利悦 豪商久末久五郎ら諸役免許の特権を付与す
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■ 越前道川三郎左衛門へ下さる御免船御黒印並御書
元禄十年六月廿二日
越前(若狭か)敦賀
一、縮緬一箱 扇子一箱 ドウノカワ道川三郎左衛門
右は商船御領内え遣し候節、船役御免の由、利直様御黒印ならびに御書一通、先祖三郎左衛門に下だし置かせられ候処、当三郎左衛門、終いに御目見仕かまつらず候に付、この度江戸え罷り出で、丁字屋未休を以って申し上げ、右の通り差し上げ、御目見仕まつり、御吟味座敷にて御料理下され候
[頭注] 御吟味座敷は今言う御元〆役所也
その方船、我ら領内、いずれの津へ入りまかり越し候ども、役儀一切あるまじきもの也
慶長五年
七月二日 利直御黒印
道川三郎左衛門とのへ
それ以来は申し承わらず候 すなわち我等荷物拾駄ほと下し申し候秋田えの船、馳走(ちそう)にて御のせ給わるべく候様子によって葛巻覚右衛門申すべく候 恐々謹言
南部信濃守
林鐘(六月)二日 利直御据判
たうのかハ
三郎左衛門殿(『篤焉家訓』)
【解説】
藩政時代初期、南蛮貿易で巨万の富を築いたと伝えられる若狭国(福井県)小浜の組屋源四郎や、同国敦賀の道川(どうかわ)三郎右衛門、越前新保久末久五郎、出羽酒田(山形県)の加賀屋与助らが、南部領内の田名部・野辺地・横浜等の諸湊に、南部家より諸役免許の特権を付与せられ入津していた。
商例として、組屋源四郎が文禄四(一五九五)年に津軽にあった豊臣秀吉直轄地の蔵米二千四百石を金百両(金一両二十四石)で売却することを請負い、京への輸送および南部領内で売却に当たった事例をみる(組屋文書)。
まず六月、七月に二千四百石のうち千二十六石の米を金九十五両で売却。次いで八月には七百二十石を金六十両で売却している。この過程でネズミによる欠損米など諸経費分五十四石を除いた残米六百石を小浜へ運び、船賃二百石を差し引いた四百石を小浜にて金五十八両で売却。浅野長吉まで決算書(四百石分を四百六十四石=一・一六倍=として帳尻を合わせている)に請負代金百両を添えて納めている。
決算書に見る六十四石の差異とは、実は『御国法郷村取扱向古今之説』が「(近世初期に南部領の枡は)十二合枡にて一俵三斗入を京枡入目に直せば三斗四升七合余となれり」と説くように、当時、盛岡領では十二合一升の枡を使用していたことに由来する。
一方、小浜では京枡(十合一升)を使用していた。これから生じた差異(一・一六倍)であり、うなずける。
なお、『日本近世商業史の研究』(山口徹著・東京大学出版会、一九九一年)は、この事例を以て蔵米を現金化する手段と捉えるべきではないこと。豊臣政権下の諸藩が飢饉(註・当時南部領は飢饉に見舞われていたかは確認出来ない)に見舞われ弱化することは、その支配構造の一角が崩れることを意味するので、津軽の米が南部へ移出された意味はそこにあるとしている。
蛇足ながら、南部領は常に他領米に依存しなければ成り立たない土地柄であったことを知る史料としても貴重であり、ここに紹介する。
それにしても、組屋の商売は、売却代金二百十三両から浅野長吉に納めた百両を除く百十三両と船賃の米二百石を得るぼろい商売である。
ここに見える記録は、元禄十(一六九七)年、道川三郎左衛門が江戸の豪商丁字屋未休を介して、かつて先祖道川三郎左衛門が、慶長五(一六〇〇)年七月二日付で南部信濃守利直より与えられた諸役免許状を携えて南部邸に到来したことの記述、および年号は欠けるが林鐘(六月)二日付の書状である。
慶長五年に特権を付与された理由について、文化八(一八一一)年七月及び同年十二月の「道川純蔵口上之覚」は「私先代の者、手船数艘所持仕り候に付、南部表へも指下り候由、右に付彼方にて調達金等、御願御座候て御用達仕りに付、私手船の分、南部様御領内一統無役にて出入り仕り候様の御判物下し置かせられ、ありがたく頂戴仕り、年々往来仕り候云々」とあり、御判物は調達金の御用達を道川に命じ、その代償として「領内一統無役にて出入り仕り候」物とある。
慶長五年当時、南部家が大量の資金調達を必要とした背景を考えるならば、同五年の最上陳、同年及び翌六年の和賀陳に際して、武器調達を含めた大量の軍備費の調達が想定されるのではないか。年号を欠く林鐘(六月)二日付南部信濃守利直状について、『岩手県戦国期文書』は慶長五年書状。『青森県史』資料編近世一は慶長元年書状に比定している。
私見はないが、利直は慶長元(一五九六)年当時には既に信濃守を名乗っているものの世子であり、遺跡相続は慶長五年であること。利直による特権付与は慶長五年であることを考慮するならば、慶長五年を遡ることは考え難く、さりとて下限は未詳。あえて二者択一をするならば慶長五年説の方に軍配をあげる。
「道川氏は、中世以来越前・若狭・丹後の諸浦との間で廻船に当たっていた敦賀の川船座の頭分で、当初は川舟氏を称し、兵衛三郎、兵三郎、後に三郎左衛門を名乗った。天正十一(一五八三)年に敦賀の領主となった蜂屋頼隆から道川氏(川舟兵衛三郎)は、これまで同様に地子・諸役・櫂役を免除されている。
慶長二(一五九七)年・四年に太閤板を秋田から敦賀に輸送し(秋田家文書)、五年七月には南部利直からは領内諸浦での舟役を免除され、慶長十三(一六〇八)年七月には佐渡奉行大久保長安から六枚櫂の船一艘の櫂役を免除され、さらに秋田藩の蔵宿を勤めており、広く北国に活躍している(道川文書)。
江戸時代に入ってからは、加賀大聖寺藩・越後長岡藩・出羽新庄藩などの蔵宿を勤め、また高嶋屋伝右衛門・三宅彦右衛門とともに敦賀の町年寄を勤めていた。(「遠目鏡」)」(この項は『福井県史』による)という。
文化八年の書状では「私儀身上不如意に相成り云々」といい、その上で「田名部浦にて七百石積の船一艘に付、一上下諸役御免」の特権が付与されている。
栄枯盛衰は世の常。道川家の度重なる浮沈の歴史が読み取れよう。
◇ ◇
補足として越前坂井郡新保の船持木材商人久末久五郎の場合を見る。『雑書』延宝八(一六八〇)年九月条は、久五郎の跡を徳兵衛・長右衛門と相続。長右衛門の跡を継いだ宇兵衛(元文四年状に散見する徳兵衛と同人か)は先祖が付与されていた特権の復権を賭けて盛岡へ到来。目的を達成(手船之内、千三百石より下の小船弐艘諸役に付免除)して帰国と伝える。
それは、元和二(一六一六)年若州小浜より信濃守様并御家老中様、御武具・馬具御道具、祖父久五郎手船に積み、御領内田名部浦まで持参仕り御用相達」、また「その翌年御領内の海辺に飢饉仕り、種米御払底の由にて越中国徳長様え御頼み、種米千俵(『篤焉家訓』は百俵)を御調遊ばせられ候、これも手船に積み田名部浦まで持参仕り、両度の御忠節仕り候、その節御運賃を下し置かせらるべく由仰せられ候へども、先年より御領内え罷り下り舟渡世を仕り候故、両度共に御運賃は申請けず候」(『宝翰類聚』所収元文四年八月付久末徳兵衛・同長右衛門父子連名状)に起因する。
元和二年云々とは大坂冬の陣後の帰国を言い、通説では利直は帰国に際して駿府に立ち寄り、徳川家康に謁したと伝えるが、武具・馬具その他などは、若狭(福井県)小浜から海路を田名部まで回漕した。この時の費用等は久末久五郎が手前持ちであったのが真相であるらしい。
また翌三年南部領内は飢饉にさいなまれ、種米までも払底となった。久末久五郎の奔走で越中国から種もみの調達ができ、その功績をもって付与された特権。一時期、商船の往来は中絶状態であったものと知られる。
初期盛岡藩海運史の全ぼうを知りたいものである。
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