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開運橋から眺めた岩手山 |
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■岩手山の〔銀の冠〕
異常気象といえば、昨年末から1月にかけての盛岡は、雪がまったくみられない暖冬で、2月に小岩井農場で開催する「いわて雪まつり」は雪不足でじつにわびしいイベントとなりました。
ところがどうしたことだ。3月になると、にわかに寒冷前線が反復して来襲し、除雪車があわただしく街路を行き交う情景をもたらしたのです。そうしたこの冬の異常気象を記録したのは岩手山の雪模様でした。
例年ならば3月末ころの岩手山は三合目あたりより麓(ふもと)の方は青黒く地肌をむき出しているのに、今年は4月半ばになっても山頂から麓まで積雪がすっぽり包み、その白衣を朝陽がほんのり紅さして、じつに神々しく浮き立たせているのです。
こんな岩手山の光景が明治42年(1909)3月31日にも開運橋から眺められたかも知れないのです。その当時の「岩手日報」(3月31日付)にたまたま掲載されたこの日の天気予報は、「北西の風晴れ後曇る(水沢)南東の風晴(宮古)」と天気予報欄にあったのです。
盛岡測候所が大正2年9月1日にできるまでは、県内の天気予報は県南は水沢緯度観測所、県北は宮古測候所から情報を入手していました。宮古測候所は盛岡地方の気象について盛岡周辺の幾つかの地点(事業所)に委嘱し観測データを報告させていて、小岩井農場もその一つでした。
観測を委嘱されたのは明治39年らしく、そのころに木製の四層櫓(やぐら)を本部のそばに建立し、櫓の最上層部に風力計や風信器などを設置し毎日気象を観測してその記録を宮古測候所に送っていたのです。
その宮古発の天気予報が明治42年3月31日には「南東の風晴」だったから、現在のように温暖化されていない100年前の3月末の岩手山は、たぶん今より真っ白な姿だったのでしょう。
この日は、花城小学校を卒業した13歳の宮沢賢治が県立盛岡中学校を受験するため盛岡に行く日でした。賢治は母イチにともなわれ、花巻駅から11時ころの汽車に乗って昼近く盛岡駅に着いたのでしょう。入学試験中(4月1〜2日)は宮沢家で定宿にしていた紺屋町三島屋に止宿する予定だったので、駅前から北上川にかかる土橋の開運橋を渡っていくと川上に雪に覆われた岩手山がたおやかにすそを引いて浮かんでいました。
賢治は思わず木の欄干に手を掛け岩手山を凝視したものでしょう。すると、晴れ渡った山頂の外輪山の雪が純白に輝き、まるで銀の冠をつけた大王のように交感されたのです。
この初印象が賢治少年の心の深層に刷り込まれ、〔銀の冠〕は岩手山を大王と象徴させる記号として作品に現れていくのです。
この〔銀の冠〕は童話「水仙月の四日」の雪童子が投げてやった黄金いろのやどりぎの枝だったかも知れません。赤い毛布の子供がそれをしっかり受け止め凍死を免れたように、岩手山が呼び掛けた〔銀の冠〕を真っすぐ交感した少年賢治は、やがて文学の世界で開花して行くのです。 |