■鹿角口に動員した部隊とその概要
▽天象隊 高知 準高知の2・3男と上士(200石格)の嫡男で編成 1小隊
▽昭武隊 百石以下およびその子弟で剣槍術に優れた者で編成 2小隊
▽地儀隊 五十石以下で編成 通称剣槍武者隊 2小隊
▽発機隊 五十石以下の二・三男で編成された鉄砲隊 通称鉄砲武者隊 4小隊
▽鳥蛇隊 鉄砲同心で編成された新式編成の部隊 3小隊
▽大砲隊 数小隊
以上が記録に残っている動員部隊であるが、1小隊30人〜40人とすると全体で700人ぐらいになる。また編成の中身であるが、表に書かれているのは原則であって、たとえば発機隊に嫡男が入っているように、実態は相当違っていたようである。
東北戊辰戦争初期、盛岡藩は鎮撫総督府の命令により福島方面に藩兵を派遣している。その人数は当時の資料からみると、人夫を含め800人以上であり、その主力は藩の常備兵力である鉄砲同心隊と思われる。
盛岡藩は秋田侵攻において鹿角口に総力を投入しているが、実戦力の中心は鉄砲同心隊である鳥蛇隊であるので、人数では同隊の割合が多かったはずである。当時の記録から盛岡藩の鉄砲同心は弓同心からの転向組を含めて800人から1千人と推定できるので、前表は一次動員の分だけかもしれない。
また実際の動員数と、盛岡藩が敗戦後薩長藩閥政府に報告した数とを比較すると、敗戦後の報告の方が相当少ない。多分敗者としていろいろな思惑があり、前表は少ない方に合わせたのかもしれない。
前表に鉄砲武者という言葉が出てくるが、鳥蛇隊の鉄砲同心という言葉と対比される言葉であろう。鉄砲同心と一緒では〓武者〓のプライドが許さなかったのであろうか。ここにも旧制にこだわる形式主義の残さが見られる。
また高祿の藩士たちには鉄砲の装備を義務づけているので、発機隊とは別にその銃手(多くは陪臣であろう)も鉄砲武者と称したことも考えられる。
ただし、その場合は、銃の種類(大部分は火縄銃であろう)・口径・射程そして射撃術も統一されていないわけで、実戦でどの程度役立ったかは疑問である。
全動員兵力であるが、以上のほかにルート(攻口)別各指揮官の直衛部隊や、地元である花輪・毛馬内・大湯所在の地方給人などの下級藩士、桜庭氏など地元館主の陪臣、そして〓またぎ〓を含む現地徴用の農兵などを合わせ、総勢900人以上の人員が動員されているので、合計1600人を超えることは確かである。
また以上とは別に、津軽藩境の警備と後方支援のため、現地徴用の農兵を中心とした兵400人以上を配置あるいは待機させており、そのほか補給部隊などを合わせると総勢2千人前後と思われる。
ただし、以上は開戦当初の数字で、開戦後数度にわたり、鹿角地方以外から兵力を増強しているので、最大時には少なくても2300人以上であったと思われる。
■部隊編成の具体的中身と戦死者から見た考察
▽天象隊 形式的に編成した感じである。上級藩士の子弟を出役免除したのでは具合が悪かったのか。
それにしても高知・準高知の嫡男はどうしたのであろう。
▽地儀隊 剣槍武者と言えば勇ましいが、鉄砲を扱えない、あるいは鉄砲を所持していない者を集めた隊と思われる。
▽昭武隊 剣術・槍術の手練の者により編成した隊で、志願と指名により編成したと思われる。指名方法であるが、例えば剣術指南役の推薦などで選抜したのではないだろうか。
この隊や地儀隊のような剣槍隊は、銃撃戦が主となる攻撃の場合は戦力にならなかったが、8月上旬の神明社境内の払暁戦のように、奇襲され受け身となった場合の白兵戦では奮戦している。
▽発機隊 いわゆる〓サムライ〓は鉄砲あるいは銃撃戦に対して拒否的であったことが知られている。そこから考えれば、部屋住(いわゆる厄介・冷や飯食いのことである)の2・3男に給与を払い動員訓練した部隊と思われる。
わざわざ鉄砲武者として鉄砲同心と区別した理由は前に書いたとおりである。また鉄砲は多分藩からの支給品であろう。
▽鳥蛇隊 いわゆる鉄砲同心隊である。前も書いたが、東北戊辰戦争の初期、鎮撫総督府の命により会津攻撃のため福島方面へ派遣された藩兵の中心になった隊である。集団戦闘訓練を受けた精鋭部隊であり、統一装備していた銃も盛岡藩としては最新鋭のもので、秋田侵攻でも中核になった部隊である。
福島に派遣された際、その調練ぶりを見た鎮撫総督府関係者から、〓薩長兵に優る見事な進退〓と褒められている。
他藩の人間の目につき、また他藩の兵と比較されるであろう国外派遣部隊に選んだのは、戦闘力はもちろん、装備・服装・訓練などの点でも他藩兵に見劣りしない自信があってのことであろう。
もっとも、鉄砲同心以外の隊は当時はまだ編成されていなかったと思われる。もしかすれば、藩上層部としては、急きょ編成した未訓練の隊を派遣しても使いものにならないと考えたのかもしれない。
戦死者の内訳であるが、藩士に限れば昭武隊・発機隊そして地儀隊などである。そして天象隊は一人である。
注目すべきは、この戦域の戦死者108人の内訳である。士分が41人であるのに対し卒以下が67人で、そのうち〓またぎ〓を含む農兵などが50人である。
戦死した藩士も所属隊から考えてほとんどが下級兵士であり、卒以下の戦死者を合わせて考えると、この戦争の実態が見えてくる。
隊長クラスの戦死者は1名だけである。各隊の隊長(多分上士クラス以上?)は先頭に立って戦わなかったのであろうか。
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