2007年 5月 12日 (土) 

       

■  〈賢治の置土産〉4 岡澤敏男 岩手山へのあこがれ

 ■岩手山へのあこがれ

  賢治と盛岡の交流はこの日が初めてではなく、実は盛岡中学校を受験する前年にすでに始まっています。それは明治41年9月30日のことで、盛岡に行啓する東宮(皇太子)殿下の日程に合わして予定された遠足のときです。

  この日、花城小学校6年生だった賢治は先生に引率されて盛岡を訪れたのです。賢治の綴方「皇太子殿下を拝す」に、この日のできごとを書いています。

  これによれば、午前中に厨川村(青山町)の工兵八大隊の兵舎や、5日から実施してきた特別工兵大演習地の古馬頭(こばかしら)原を見学した後、市内にもどって2時半ころ岩手公園付近で東宮(皇太子)殿下を拝礼したらしい。そして同公園本丸跡に9月15日建立したばかりの南部中尉(南部利祥)の銅像を見学したとみられます。

  この日の岩手日報に天気予報は載っていないが行啓関連記事によると夜来の雨が午前十時ころやみ、なお降りみ降らずみの空模様だったから岩手山はあいにく見えなかったはずです。それだけに翌年3月末の盛岡行きの際は好天にめぐまれ、岩手山の〔銀の冠〕を新鮮に交感できたものだったでしょう。

  人には一生を左右する天啓に出合うことがあるという。天啓とは「神が現象界を通じ、或いは直接人の心に自己の内性(証)を至現すること」(「広辞苑」)であるらしい。

  13歳の少年賢治に交感させた岩手山の〔銀の冠〕は、まさに岩手山が賢治によびかけた天啓だったと思われます。岩手山がどんなことをよびかけたのか。それは盛岡中学に入学した賢治の行動のなかに至現されているのでしょう。

  寄宿舎自疆(じきょう)寮に入寮した賢治は、小学校時代から熱中していた「石コ賢さん」の本領を発揮し日曜・休日には盛岡周辺の山野をたずね鉱物採集に夢中になり、採集した鉱石は机の中はもちろん寄宿舎の押し入れも満杯になるほどでした。

  晩年近い昭和5年ごろ「東京」「文語詩篇」ノートに賢治はなぜか略年譜を記録しています。そのなかで中学1年時代に同級生と鉱物採集にでかけたことが「土屋/蛭石」「中村/鬼越」「阿部/岩山」「長浜ト鬼越ニ行ク」などと頻繁にメモされています。

  しかし中学2年になると「岩手山」の名前と関連記事が具体的にメモされてきます。「岩手山 麓の野 炬火の余塵」「岩手山、山県頼成、橋爪、関」のあとにつぎの短歌が散らし書きされている。

  黒き夜や野路行く人のた
  いまつの余塵を赤く散ら
  す風かな

  この記事は、博物の山県先生(舎監長)に引率され約60名の2年生が植物採集をかねて岩手登山をした6月18日のメモとみられる。また9月23日にも英語担当の青柳亮先生と岩手山に登り、網張温泉に一泊し小岩井農場を経て帰寮したときには「二十三、二十四日 岩手越 雨、火山灰層 小岩井農場、楠ジョン、青柳先生。パンを食みくる」とメモしています。

  さらに3年生4月になると「岩手山ニ独リ登山ス」というメモに出会います。このメモに注目されるのは各文字の上部に訓点を付していることです。この訓点の意味は、中学2年生まで先生に引率され同級生等と岩手山に登った賢治が、3年生になって岩手山の呼びかけへ初めて自我の目覚めを知ったという証しなのでしょう。こうして岩手山への旅が始まっていくのです。


 ■賢治6年生の綴方

    皇太子殿下を拝す

「昨日は私等のいつまでも忘れることができぬ日であります。

工兵八大隊の兵営や演習の後を見て来た帰りに私等が皇太子殿下がおいでになるのを拝す為に一列に並んでまって居りますと自てん車に乗ったけいぶが通りその後に人力車で三人通りそれから殿下は、挙手の礼をこの賤しい私等になされましてお通りになりました。

あー、雲の上の貴きお方がこの賤しい私等に礼をなさるとは校長さんのお話しの通り涙がこぼれるばかりであります。

昔は土下座して殿様のお顔も見ることができぬ代がどーしてこの如き有難い代になったでせう。

この有難い代に生まれにつけても君の為につくさねばなりません。」

    ◇   ◇

  【注】この綴方の3日ほど前に書かれた「遠方の友につかはす」と題する綴方の一部を引用し、遠足次第を補足します。

「今度、皇太子殿下は盛岡においでになってをりますので私共は明後日盛岡迄遠足するつもりであります。今度は、皇太子殿下がおいでになってをるばかりでなくまだ新しく建った銅像もませんからそれと工兵演習の後をみて来るつもりであります。」

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