盛岡市民の憩いの場、サクラの名所で知られる高松公園のサクラ植樹100周年を記念した植樹が12日、同公園で開かれた。主催の植樹100年記念事業実行委員会や地元の小中学生、地域住民ら約180人が参加し、カンヒザクラとヨウコウの2種類、計50本を植えた。式典などを通じ、先人の取り組みに思いをはせ、新たな100年を見据えて次代に引き継ぐことを誓った。
植樹は3つ築かれた堤防のうちの一つ上堤だった芝水園東北側の斜面で行われた。参加団体、家族ごとに植樹をした。幼児から大人まで世代の異なる者同士が一致協力した。
今回植えたのは高さ2・5〜3メートルの5、6年生。スコップを使い、根の部分が隠れる程度に土を掘り、大人の手で木を植えた。その周りに土を掛け、踏み固めた。木製のラベルが配られ、植樹をした参加者が名前を書き込んで枝などにかけた。
柴田駿(はやと)君(上田小1年)は初めて握るスコップの重さに四苦八苦。一緒に参加した母親と地域住民の指導と協力で無事に植樹を完了。自筆のサインをしたラベルを枝にくくりつけた。
「スコップが重かったけど楽しかった。自分が植えたサクラをまた見にきたい。今よりもっと大きくなってほしい」と願っていた。母親は「放課後のお散歩コースにもなっている。自分は高松育ち。旧競馬場が遊び場だった」と親子2代で公園に親しんでいるという。
史料などによると、かつて高松公園付近は奥州街道の要衝で、湿原だったという。大雨になると仁王地域まで水浸しになったことから、南部氏の盛岡城築城後の寛文年間(1661〜1673年)に堤防を築き、それが地名「上田堤」の由来になっている。
明治期から公園化の動きが始まる。明治39年(1906年)、日露戦争の戦勝記念に地元の有志が中心になって市民の寄付を募った。集めた寄付でサクラの苗木1千本を植えたという。市は八百数十本と推定するなど植樹の本数には諸説ある。
大正10年(1921年)に現名称「高松の池」となって以降、周辺の公園整備計画が動き出した。昭和3年(1928年)に合併で盛岡市の管理となり、同23年(1948年)には国体スケート大会の会場にもなった。四季を通じて市民の憩いの場、観光名所になっている。
植樹後、平和記念像隣の芝生広場で記念式典があった。盛岡女子高のブラスバンド部、バトントワリング部がオープニングで演奏と演技を披露した。
村井政吉実行委員長は「残された遺産をさらにサクラの名所の公園として、周辺商店街繁栄のもとにしてほしい。100年の転機、先人にあやかり後世に残す遺産づくりに今後も協力を」と呼びかけた。
谷藤裕明市長は「先人の方の100年の思いを次世代に引き継いでもらい、世代間交流も合わせて行われた。大切に育て市民協働の公園づくりをしたい」とあいさつした。 |