■ 〈古文書を旅する〉166 工藤利悦 古代の枡に違いあり、盛岡藩は京枡を用い申し候
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■ 日本升の寸法並びにカヨの事
古代の升の寸少し違いあり、これは中奥御改めの寸法なり。古代の升、人王四十二代文武天皇慶雲二(七〇五)己巳年諸国正升となり。
一斗入升 内規一尺五分四方
〇四方の板の厚さ七分ずつ 底の板は右七分の板にて五厘引きて六分五厘也。深さ五寸三分八厘
五升入升 内規八寸三分八厘四方
〇四方板の厚さ六分ずつ也 底の板は六分の内より五厘引きを用ゆ。深さ四寸六分一厘五毛
一升入升 内規四寸分四方
〇四方板は四分ずつ也 底の板は四分の内より五厘引きて三分五厘也。深さ二寸七分八厘
五合入升 内規三寸九分四方
〇四方の板は三分五厘ずつ也 底の板は三分也 深さ一寸八分八厘
一盃入
二合五勺升 内規三寸一分四方
〇四方の板は二分五厘ずつ 底の板は厚さ二分也 深さ一寸六分五厘
半盃入
一合二勺五才升 内規 深さ
○升之斗〓(とかき)、あるいは文字斗概(とかき)
一斗入の升に用る斗かきは周二寸六分、長さ一尺四寸五分、小升に用る斗かきは周一寸二分、長さ六寸五分、およそ斗かきの廻り太さを知るには、何升入りにても、升の底の裏板に焼印あるもの也、その焼き判の周りへ斗かきの小口を押し当て、たとえば一斗入の斗かきは一斗升の焼き判の周りと丸み同様也、一升入の斗かきは一升入の焼印の周り同じ也、かくの如くと知るべし、ただし斗かきの長さは何升入升にても、その升の斗かきの長さは升の角みより角みへ渡して両角みにて一寸ずつ余るは定法也
○升に渡し金と云ふあり。何升入にても、その升の板の厚さと渡し金の幅と同寸同分に打ち出す也、もっとも渡し金の厚さは幅より五厘引いて打ち出す、たとえば壱升入の渡金は升板四分の厚さなれば四分の幅に打ち出す。金の厚さは三分五厘也、升の四方の縁に打ち付る金は、見合厚さは二三厘程より、段々升に依って打ち出すものなり。三合升・五才升まであるなり。
右、延享二(一七四五)年乙丑夏、南部中へ別けて升改め仰せ付けられ、古升を用いず、鍛冶棟梁の与右衛門より升ならびに斗かき共に受取代銭左の通り、一升入斗かき共に二百十五文、五升入斗かき共に五百十五文、ただし、一斗入斗かきは三十五文、七升入より三升入まで斗かき一本に付き二十四文、一升入より五合入まで斗かき一本に付き十六文。
享保年中(一七一六〜三六)までは南部にカヨと言うて、白木の飯椀のこしきの物へ焼き印を当て、これにて一盃を二合五勺とす。四盃を一升とす。
元文年中(一七三六〜四一)より相止め、二合五勺升を通用仰せ付けらる。しかれども今にこの椀所々に残りてあり、ゆえに二合五勺を一盃とばかり言うて二合五勺と言わずは古風の残れるものなり。
酒を斗る掻器、一盃入り二合五勺入(深さ二寸一分五厘・径り三寸六分)、半盃入り一合二勺五才人(深さ一寸五厘・径り三寸三分)
『篤焉家訓』
【解説】
この記録は、穀物など容積を計測する枡の仕様、及び南部領内で使用されていたという「カヨ」並びに延享二年の枡改に触れている。
しかし、五合枡、一升枡、五升枡、一斗枡の各容積を見ると、一升枡を基準にして五合枡は〇・六倍、五升枡は七・三倍、一斗枡は一三・三倍となり、数値は全く一定していない。
江戸幕府が公定枡とした京枡との比較では、五升枡は等倍ながら、五合枡と一斗枡は〇・九倍、一升枡は〇・七倍となっている。明らかに京枡の規格を明示しているものと想定されるが、各枡の寸法に誤りがあり、等倍である五升枡についても、京枡(方八寸三分四厘、高さ四寸六分六厘)と形状が異なっていることが判明する。
また、延享二年にあった枡改の記録は、延享三年二月二十五日の布告「御領分中通用穀物升目不同に付、斗方の儀この度別て御吟味御改仰せ付けられ候、只今まで通用升据様は、升取の勝手次第と候付、入目増減これ有り候、向後商売穀物・塩斗立(とかき)候節、壱斗入升より壱合入升迄も据置云々」(『御家被仰出』)の誤伝であろう。結論として史料的には疑問がある記録と言えよう。
そもそも、戦国時代を通じて、諸国の枡制は乱れていたが、織田信長・豊臣秀吉は京枡を採用して枡制を制定していた。
天正十八(一五九〇)年関東に入部した徳川家康は、江戸に枡座を開設、十合一升枡を基準とした京枡を公定枡と定めている。
宝月圭吾著『中世量制史の枡究』によれば「この枡の容量は約六万二千五百立方分。しかし、京都の京枡は、商業的発展などに伴い、寛永年間ごろには六万四千八百二十七立方分(現量一升、約一・八リットル)に増量したのに対し、江戸枡座の枡は旧態依然として旧量を保っていたため両枡の間に大きな格差が生じ、これを区別するために、江戸の京枡を一般に江戸枡と称していた。しかし、このような大小二種の京枡が、公定枡として東西に併立する状況は、全国経済の確立期にあって甚だ不便を伴うので、寛文九(一六六九)年、幕府は江戸枡を廃止し、江戸枡座にも京枡を採用させた。こうして新しい京桝による、公定枡の全国統一が完成した」という。
この時、幕府は諸藩に命じて使用枡の現状ならびにその沿革を書き上げさせている。
これに対して盛岡藩は、現行枡は京枡であること。その嚆矢(こうし)は、天正十八(一五九〇)年に、豊臣秀吉による小田原陣に参陣した南部信直は、国許に枡師を雇うことを願い出て許可せられ、制作させた枡が現行の南部枡と書き上げている。
『枡師記録』は枡師の名を池田孫七と伝えているが経歴などは未詳。その規格は、金田一久右衛門『土地考書』によれば「古は諸国共通用乃升は十二合乃升にて、一升弐合三夕三才積にして、御国乃御納米一俵三斗入に御座候」とある。なお、文禄四(一五九五)年当時、領内では十二合一升の枡を使用していたことについて前回七十五話で紹介した「組屋文書」によって傍証される。
その後、寛文八(一六六八)年六月に幕府へ提出した書き上げには、「枡の儀前々より京枡を領内町在々ともに用い申し候。納枡(おさめます)壱斗入れ、ただし京枡にて壱斗壱升を前々より用い来たり候」といい、『御国法郷村取扱向古今説』は、寛文十二年に寸法を改めたと記述。
『土地考書』は「御国乃御納米一俵三斗入に御座候所、中古に至、諸国共に十合之升に罷成申候、以来は御蔵米三斗七升に入御座候」。
『雑書』は寛文十二(一六七二)年十月二十二日条に「一、當御年貢米新御桝にて、壱駄付七斗四舛、壱俵付て三斗七舛入に納め申すべく事。四、御借籾上納、今より以後新舛にて五斗俵に納め申すべく事、附、新納壱駄付、壱舛三合過これ有り候、此分は壱割利足之内にて指し引き申すべく事。(その他略)」と記録す。
この時の枡の種類は公定枡が一合(方二寸一分、深さ一寸四分三厘、ほか割愛)・二合五夕・五合、一升、五升、七升、一斗枡の七種類であるのに対し、盛岡藩の枡は一合枡(方二寸二分七厘、深さ一寸二分五厘八毛、ほか割愛)から一斗七分五夕枡まで二十一種類としていた。
ちなみに、一升枡の寸法は方四寸九分、深さ二寸七分で公定枡の寸法と形状は同じであるが、他の枡は口がやや狭く、やや背丈の高い枡であった(『御領分通分諸上納金銭雑記』俵仕之条目)。
実は、高田藩・姫路藩・岡山藩・徳島藩などにも類例があることながら、盛岡藩は京枡を使用していると申し立て、公定枡と規格を異にする、いわゆる南部枡が使用されていた歴史がある。
安永五(一七七六)年に、幕府は江戸枡座樽屋藤左衛門の手の者を以て諸国枡改めを令した時に、盛岡藩は、形状は公定枡と異なるが容積に相違はなく、既に幕府の許可を得ているとして焼き印の陰影を提示。と苦しい答弁に始終し、対応に苦慮した様子も知られている(『御桝一巻』)。
一方、『枡師記録』には、藩政時代から明治初年にかけて使用した一斗七合五夕枡以下、五夕枡まで十種類の枡寸法が記録してある。この枡の寸法も一升枡を除く他の枡はいずれも別規格であり、『御領分通分諸上納金銭雑記』によって天和二(一六八二)年以降に再度改訂された時期があることが想定される。
領内使用の枡は、枡師川村与右衛門が製造し、藩の勘定所が焼き印をした枡以外の使用は禁止されていた。ただし廃棄は藩の手で行われた。その時期、改訂理由などは未詳である。
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