2007年 5月 14日 (月) 

       

■  〈続・岩手人の見た戊辰戦争〉19 和井内和夫

 ■苦心した部隊編成と実際に戦った者たち

  前に書いた、旧来の知行対応の兵賦方式での動員では、身分別に編成すれば年齢が不ぞろいになるし、戦闘における機動性を考えれば年齢別編成が望ましいわけだが、それでは身分が混在するわけである。

  当時の藩士たちの意識からすれば、身分が混在していては統制困難で、戦争の実態が集団戦となった当時では、実戦では使いずらかったであろう。

  また身分別編成にしろ年齢別編成にしろ、各人の戦闘術(銃・剣・槍)や体力には相当の差があったわけで、戦闘あるいは機動の面で制約があったことも確かである。

  そのほか鳥蛇隊・発機隊以外は、各自の装備が原則自前であったことも、戦力の面ではマイナスであったと思われる。

  盛岡藩の軍編成は、基本的には身分別と言うことができるが、当主そのものは除いて、それぞれ二・三男とか嫡男とかとして編成したところに、軍制改革の過渡期における関係者の苦心が感じられるのである。

  正直のところ年寄りや武芸不鍛練の者は足手まといということであろう。それにしても封建軍制の限界は明らかである。

  その点長州藩の庶民軍であるいわゆる諸隊では、徴募条件として、年齢はもちろん隊によっては、一応ではあるが体格まで規制しているのはさすがである。

  鹿角戦線における盛岡軍の戦闘参加人員を千六百人として、戦死者を百八人とすると戦死率は7%弱となるが、これは戊辰戦争に参戦した他藩に比較して高い数字ではない。

  前項で戦死者の中身が農兵などを含めて下級者が多かったと書いたが、その理由は次のようなことだと考えている。

  戦闘の実態が銃撃戦であり、実際に戦ったのは鳥蛇・発機の両隊や現地編成のまたぎ隊で、昭武隊・地儀隊などは、前にも書いたように、奇襲されたような特別の場合にしか戦力になりえなかったからである。まして天象隊に至っては、従軍したという形だけのものであったと思われる。

  当時の戦闘の模様を描いた絵がある。それには鎧兜(よろいかぶと)をつけ従僕らしい者を従えた〓サムライたち〓も描かれているが、その装備は機敏を要する戦闘行動には不向きで、しかも〓目立つことが目的〓の戦国以来の〓いでたち〓では、狙撃してくれと言うようなものである。多分番頭クラスの指揮官か天象隊所属の者と思われるが、これらの中・上級藩士たちは実戦ではほとんど出番がなかったであろう。

  ■第一線指揮官の能力

  装備や軍編成の近代化となると、薩長両藩をはじめとして、土佐・佐賀・大村・佐土原などの西国諸藩が先進していたと言われている。

  またそれらの先進藩を含め、各藩とも小隊(30人〜40人)中隊(150人〜200人)クラスの指揮官の育成が悩みであった。前記の先進藩や幕府歩兵隊は外国人(イギリス・フランス)教官を雇用して育成に努めたがそれでもまだ十分ではなかった。

  東北諸藩ではようやく洋式編成への切り替えに着手したばかりで、現場指揮官の戦闘指揮能力は低く、白河城争奪戦での繰り返しの惨敗や、その後の各地での敗戦でその稚拙さを露呈している。

  盛岡軍の場合、蝦夷地警備でのロシア軍との戦闘による戦訓もあり、苦しい財政状態のなかで軍制改革の努力をしており、東北では庄内藩や鳥羽伏見戦後洋式化を急いだ会津藩に次いで切り替えが進んでいたとも言われているが、下級指揮官の育成までは金も手も回らなかったのが実態のようである。

  それでも、秋田侵攻当初は旧式編成・装備の久保田軍が相手であるので押し気味であったが、8月下旬になって、最新の編成・装備の佐賀軍が登場すると一方的に押しまくられる結果になった。

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