■ 〈賢治の置土産〉7 岡澤敏男 賢治の岩手登山伝説
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■賢治の岩手登山伝説
賢治が盛岡に在住したのは、明治42年(1909)4月から大正7年(1918)7月ころまでとみられるので、約10年の歳月を間近に岩手山を仰ぎながら暮らしたことになります。
この10年間は、盛岡中学ならびに盛岡高等農林に在学していた期間になりますが、同時にそれは賢治が岩手山へ登山した期間にも相当するのです。中学や高農時代に同行した級友たちの証言からうかがえるのは、頻繁に岩手山へ登ったという伝説的印象です。これに花巻農学校で生徒を連れて登山した度数を加えれば、阿部孝の「おそらく百回を突破」という印象もあながち誇張とは言い切れません。
賢治自身「もう十何べんも来てゐますが」(詩篇「東岩手火山」)とか「三〇回以上も岩手登山している」(照井謹二郎談)と語っているほど定かでないのだから、確かな登山度数などはどうでもよく、ただ頻繁に岩手山に登っていたことだけ分かればよいのです。
盛岡中学生として花巻から盛岡に移り住んだ13歳の賢治。城下町盛岡はこの多感な少年を新鮮な早春のにおいでやさしく包みこんだのでしょう。
当時の盛岡中学の校舎は市街中心部の内丸に建っていました。現在の岩手銀行本店のあたりです。学校から岩手公園(盛岡城跡)はすぐ近かったので、3年生だった石川啄木は教室からエスケープして「不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心」と歌っています。
賢治も岩手公園が好きでたびたび足を運び、短歌や詩篇に公園を歌っています。弟清六さんが盛岡中学に入学したとき、賢治は「若しも君が、夕方岩手公園のグランドの上の、高い石垣の上に立って、アークライトの光の下で、青く暮れて行く山々や、河藻でかざられた中津川の方をながめたなら、ほんたうの盛岡の美しい早春がわかるだろう」と手紙で述べています。
当時の公園の周辺には高層建築もなく、本丸の石垣から眺められた景観は、東京タワーから展望するようだったのでしょう。西方には奥羽山系の山々が並び、岩手山が西北にすっくとそびえていました。東方には早池峰を主峰とする北上高地がゆるやかに連なり、南には紫波・稗貫に通じる北上盆地が遠望され、集落や農地が点在するのが見えました。目の下を見ると町並みをくぐって中津川が白い帯を流し、下の橋の下流の杉土手あたりで北上川・雫石川と合流していたのです。
まさに当時の公園は、古来からここに住む人々の生活を培ってきた山と川の原風景に目覚めさせ、ここから望む岩手山に啄木の〈十五の心〉を吸い取らせ、賢治を霊山にみちびかせた展望台だったのです。
岩手山の雪解けの水で産湯をつかった盛岡ッ子ですら、生涯に何十回も岩手登山をする者はざらにはいないでしょう。それを賢治が十年余の間に「おそらく百回を突破」するほど岩手山に登ったとすれば、きっと岩手山と「ただならぬ関係」を詮索(せんさく)してみたくなります。いったい、どんな関係があったのでしょうか。
■ 「最初の手紙」抜粋(宮沢清六著『兄のトランク』より)
私が兄からはじめて手紙をもらったのは、中学校に入ったばかりの大正六年の四月であったと思う。(中略)手紙はこんな文章ではじまっていた。
君が下の橋の近くで、私と一しょに下宿することになって、そこから中学校に通学出来るといふことは実にいいことだ。注(下宿は下の橋のそばの玉井郷方)
玉井さんの家から下の橋の方へ歩いて見給へ。
そこの教会に向つて左に曲がつて少し行けば、「作人館」である。その学校の裏の広場に出れば、君はそこで岩手公園の美しい石垣を見るだろう。
その石垣の蔦の立派なことは、どんな季節でも、いつまで見ても、あきることはないだろう。
そしてその辺の芝草が、もういまごろは鋭く鳴つている筈だ。
それから君は公園のグランドの方に行って見給へ。もう鵞鳥たちが長い首をのばして、蛇のまねをしながら君たちを追ひかけて来るだろう。
若しも君が夕方岩手公園のグランドの上の高い石垣の上に立って、アークライトの光の下で、青く暮れて行く山々や、河藻でかざられた中津川の方をながめたなら、ほんたうの盛岡の美しい早春がわかるだろう。
(毎週土曜日掲載)
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