■ 〈古文書を旅する〉169 工藤利悦 南部家諸士の扶持人数
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■御領分中諸士並びに諸職人、すべて御扶持等下され候人数
○二十八人高知、○十五人御新丸御番頭、○五十四人三百石以上、○百人二百石以上、○御医師(百石迄)十四人、○二百三十一人百石以上、○二百七十二人五十石以上、○御医師四十六人・五十石より小身御医師迄 〆七百六十人のうち士七百人、医六十人也、○七百十四人五十石以下、○御鷹匠・御使者給仕・御勘定方組付まで八十八人也、○右は御城下分
百三十七人与力・刀差ともに 三戸御給人。
百八十一人御給人・十人御医師・九人御与力・二人刀差 花巻。
五人御給人・一人御役医・一人御与力 郡山。
百五十人御給人・二人御役医・三十九人御与力 七戸。
四十三人御給人・一人御役医・四十五人御与力 五戸。
三十六人御給人・五人御役医・十人御与力・一人刀差 宮古。
五人御給人・一人御役医・一人御与力 野田。
十八人御給人・一人御与力 大槌。
二人御給人・二人御与力 沼宮内。
三十九人御給人・三人御役医・十七人御与力・一人刀差 福岡。
二十二人御給人・三人屋鋪御給人・二人御与力 野辺地。
二十二人御給人・三人御役医・十人御与力 田名部。
十七人御給人・一人御役医・九人御与力 花輪。
十四人御給人・七人御与力・二人刀差 毛馬内。
六人御給人・三人御与力 沢内。
二人御給人・二人御与力 大迫。
三十人御持弓御同心、○百八十人御先弓御同心、○五百七十人御先筒御同心、○十人御町組、○三十人御水主、○百五十人御長柄、〆九百七十人
七十人花巻御同心、○十人郡山御同心、○二人宮古御船頭、○十二人同所水主、○三人大槌御同心、○二十一人毛馬内御同心、○三十人花輪御同心、○五人五戸同、○五人同所常雇同、○三十人野辺地同、○二人同所屋敷同、○四人沢内同、○二十一人福岡屋敷同心共に、○五人沼宮内、○四人田名部、○六人同所屋敷同心、○二十一人三戸、○十人七戸、○二人滴石、○〆二百六十七人(此算当不合) 百二十三人寺社
六人御与力、○百三人御徒、○三十五人刀指(ママ)、○七人鹿角御境古人、○十四人御墓守、○二十人御賄刀指、○十五人御得道具持○〆二百人
百七人諸職人、○一人御霊屋守、○六人小者、○十六人一生の内、○十四人御扶持町人、○十三人御餌差、○五人御武具御同心、○〆百六十二人
六十四人山守・堰守・木戸番・御野守并船守まで、○三十六人御配膳板之間・御賄所・御小納戸物出、○二十六人小者、○八十八人仁王御厩小者、○七十九人桜馬場小者、○二十九人御小道具・陸尺、○四十四人所々小者、○十九人坊主 〆三百八十五人総計四千三百九十一人(算当不合、本書の侭)寛政七年乙卯秋改之 (篤焉家訓)
【解説】
この記録は、諸士以下御小者に至る南部家より扶持を得ていた者の人数書。寛政七(一七九五)年秋改めとある。大別すると、高知から小身御医師まで。御鷹匠以下組付の者。地方御給人および地方与力・刀差(後年「中使・なかつかい」を称した)まで。
同心。地方同心。与力御徒等。その他末々が二区分とされ、総体で八区分されている。扶持とは俸禄のこと。その支給方法には、知行地をあてがわれる地方(じかた・地形とも)のほか、蔵米を春秋二季に別けて支給される現米方。金銭を支給される金方。蔵米を毎月末に分割支給される扶持方の別がある。
記録中に散見する地方同心の算当不合は、小計に対して内訳が四名不足。総計では、記録上の四千三百九十一人に対して集計結果は四千五百五十八人。明細が百六十七人過となっている。書名失念したが、沢村亀之助氏所蔵『鳳陽雑記』より引用とする「寛政七年盛岡藩諸士諸残」も同一内容。従って、現時点では算当不合の原因は未詳である。また、一生扶持をあてがわれた者には奥女中や孝心の者、その他があるが、「十六人一生の内」とあるのは盛岡在住の奥女中の員数のみと知られる(寛政十二年支配帳)。更に言えば、江戸・京大坂の出入扶持(大名貸等)等の員数も含まれていないようだ。
この種の伝存記録の中で最も古いものは、寛政七年より遡ること百十四年、天和二(一六八二)年三月改とある『御領分通分諸上納金銭雑記』所収の記録である。総計二千四百五十一人とあるが、寛政七年と調査基準(諸士・組付から同心層まで以外は、いずれも悉皆調査ではない)が異なるため、単純に寛政七年の員数を四千三百九十一人として、この期間に千九百四十人増加したとか、あるいは、集計数字四千五百五十八人が正しいとしても、二千百七人増えたとはならない。
なお、内訳は諸士五百四人、寺社七十五人。
切米(現米方のこと)を支給される五十石以上の諸士は千三十七人、御鷹匠以下組付の者百四十一人、地方御給人(郡山・三戸・花巻)五十五人、御歩行(徒の呼称)八十三人、足軽・餌差・水主千九十人、諸職人共六十四人と見える。
ちなみに、『参考諸家系図』によれば、重直代(寛文四年死去)までに召し抱えられた御給人は百三十五人。内訳は野辺地一人、七戸五人、三戸三十九人、福岡七人、五戸二人、花巻七十五人である。
この中に郡山御給人は見えないが、重信代に召し抱えられた玉山氏のことであろうか。それにしても、八十人の差は『参考諸家系図』の誤伝として見て良いのだろうか検討課題である。
蛇足ながら『参考諸家系図』から垣間見える重直(十万石の時代)・重信(八万石の時代)二代の新規召し抱えの状況を示す。重直代の召し抱え人数は三百三十人。うち百石以上九十四人、五十石以上二十八人、五十石以下七十七人、足軽百三十一人。在位三十四年であり、一年平均九・七人を採用した形である。
一方、重信は在位二十八年。召し抱えた人数は九百二十五人。うち百石以上百二十六人、五十石以上百五人、五十石以下二百人、足軽四百八十六人。であり、一年平均三十人であった。
次に、明治元年支配帳による藩士構造を見る。この記録には一生扶持のほか江戸常府や大奥関係の擬扶持は含まれていない。出来るだけ寛政七年の記録に対応するように配慮した。
○高知三十一人○御新丸御番頭十九人、○三百石以上五十七人、○弐百石以上九十五人、○御医師(百石迄)十三人、○百石以上二百三十五人、○五拾石以上弐百九十二人、○御医師(茶道を含む)八十一人、〆八百二十七人。○五拾石以下八百九十四人、○御鷹匠・御使者給仕・御勘定方組付迄百九十四人。○右は御城下分 ○地方御給人・御役医・御与力千三百三十七人、地方末々の者百五人 ○御持弓御同心三十人、御持筒御同心百六十七人 御先筒御同心七百八十人、江戸留守居組同心七十六人、拾人町組同心七十人 、○御水主三十人、○御長柄同心百五十人、〆千三百三人、○花巻御同心等地方同心(宮古水主を含む)三百十七人 ○寺社百三十四人 ○御与力二十五人、御徒九十九人、○中使百十四人、○御境古人四十三人〆二百三十八人 ○諸職人百九十四人 出入扶持二百一人 御用達・御町人二十四人、御餌差十三人、○〆四百三十二人 その他 〆四百七十人 総計六千三百十五人。
寛政以降の変動を大まかに見ると、五十石以上諸士は九十七人の増。五十石以下諸士は百八十人増。組付は百六人増。地方御給人は四百四十四人増。同心は増減はないものの弓から鉄砲にシフトしているのが窺われる。地方同心は五十人増。従って目立つのは地方御給人の増加である。天明以降、極度に疲弊した藩の財政を補完する目的で献金した豪農・豪商がいわゆる「差上侍」となった投影である。
明治二年の士族制度成立時には、高知は上士。三百石以上が中士。五十石より小身御医師迄が下士に編入。後年、秋田県人となっていた花輪及び毛馬内の旧同心が士族編入なったのは明治三十一年のこと。御先筒御同心も士族に編入されていることが知られており、岩手県籍の旧同心の編入も、秋田県籍の同輩と前後してのことであったと想定される。
藩政初期家臣団の構築分析をする際に「慶長支配帳」「寛永御支配帳」等初期諸支配帳を以て実施されている例をみる。僭越ながら「系胤譜考」「参考諸家系図」等を透してみた時、はたして耐える資料かとの疑問を抱く。識者の意見をお伺いしたいものである。
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