2007年 6月 4日 (月) 

       

■  〈続・岩手人の見た戊辰戦争〉22 和井内和夫

 ■余談の一 情報の伝達速度

  当時の情報の伝達速度であるが、もっぱら人間の脚力に頼る飛脚によっていたので、たとえば江戸と大阪間では〓急便〓で6〜7日であった。

  最速では70時間という便もあったそうであるが、料金は時間が短いほど高かったようで、当時もスピートは金次第だったようである。

  流言飛語の伝搬速度はどうだったであろう。話題の事件の情報が飛脚より早く伝わっていたという話があるが、多分普通の急便に比較した場合のことであろう。

  1月3日の鳥羽伏見の戦いの情報が、盛岡に伝わったのは1月17日であるので、14日かかったことになる。江戸〜大阪間の7日と比較して妥当なところであろう。

  ■余談の二 東北各地小藩の動向

  九条鎮撫総督の東北入り以来、東北各地の小藩は右に左に振り回された。

  地理的関係で最初から戦争に巻き込まれてしまった天童藩もそうであるし、秋田南部の亀田藩・本荘藩などもそうである。

  京都朝廷の権威や薩長藩閥政府に対する見方は、各藩ごとに違っていたし、また藩内でもいろいろな意見があったわけであるが、それらの藩にとっては、大義名分や藩内の意見がどうこうと言うどころか、侵攻してきた西軍あるいは隣接する大藩の圧力により、否応なく右往左往させられてしまったのである。

  福島方面の多くの小藩もそうで、近代装備しかも歴戦の西軍に武力対抗することもできず、そうかといって強大な戦力を保持していると言われていた仙台藩に逆らうこともできず、その進退は文字通り〓時の流れにまかせる〓しかなかったのである。

  戦前の流行歌の歌詞にある「昨日勤王 明日は佐幕」のとおりであり、理屈や建前を論拠にした結果論的批判をしても意味はない。

  それに関連するが、最終的に〓賊軍〓になった盛岡藩の場合も、九条鎮撫総督が仙台入りした当初、その命により福島方面に派遣された部隊が、一時〓錦の御旗〓を授けられ官軍になったことがあったが、当時の関係者たちが後になってどのような感慨を懐(いだ)いたか興味深い。

  ■余談の三 仙台藩の勤皇派

  藩内意見の紛糾は、小藩に限ったことではなく仙台藩も同様で、閏4月20日の鎮撫総督府参謀世良修蔵の暗殺以後、東北諸藩を糾合して薩長に武力対抗するという方向が決まる前は、九条鎮撫総督の命令に従って会津藩を攻撃すべしという意見、九条鎮撫総督と会津藩の間に入りその宥恕を図るべしという意見があり、そしてその背景にはいろいろな思惑があったことは前に書いたとおりである。

  仙台藩で戊辰戦争に関連して名前がよく出てくる、但木土佐・坂英力・真田喜平太そして世良暗殺の実行者姉歯某などが対薩長主戦派である。

  それ対し数少ない勤皇派の代表が三好監物である。三好は仙台藩若年寄で、戊辰戦後薩長藩閥政府により顕彰されている。

  黄海(今の岩手県東磐井郡藤沢の大字)の領主と称されているが、そこに知行地があったということであろう。

  戊辰政変に際しては、薩長藩閥政府に対抗することを否と考えていたが、権威や権力の本質について独自の考えを持っていたようで、無条件に会津藩武力討伐を是としていたわけではなかったようである。

  その考えの基になっていたものであるが、京都滞在時の見聞や他藩人との交流から視野が広くなり、事態を客観的に見ることができ、思考に柔軟性があったということであろう。また但木土佐などと違い、いわゆる門閥の出ではないこともその考えに影響していると思われる。

  会津藩宥恕嘆願が総督府から却下され、藩論が薩長藩閥政府と武力対決という方向に変わったことにより、藩政から退けられ自死した。


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