2007年 6月 8日 (金) 

       

■  〈古文書を旅する〉170 工藤利悦 烏帽子親の前田利家より1字授かった話

  ■ 前田家より利の字を贈られた由緒のこと

  信直公、津軽・九戸が密謀を訴えんとしたまうところ、天正十八(一〇九〇)年北条氏政の御退治として関白秀吉公関東へ御発向に付き、信直公も催促に応じ三月御嫡子彦九郎殿(利直公御事)並びに南長義を伴い、田子より浄法寺に出たまい、鹿角・比内を経て登りたまう。

  これは兵革多き故なり。ここに津軽右京は、とくに京都に登りて関白の御悃(まこと)も深かりける訳は、近衛殿に親み、賄賂をもって門葉につらなり、藤原氏を授り、杏葉(杏葉牡丹)の紋を許されけり。

  この故に近衛殿より秀吉公へさまざま口入ありて、さて、関白のまします小田原の御陣に参向し、津軽領主の由を申して安堵の朱印を賜り、右京亮為信と改め、津軽一円に押領す。

  この時、信直公には道にて津軽に行き逢いたまい、既に討たんとしたまいしを、南殿申されけるは紋を御覧あれ、杏葉を付け候は近衛殿に親み許されたるにや、近衛殿は太閤に出頭並び方なきと伝え承る。この故に安堵して下され物と覚え候。これにて討たせたまはば南部の訴訟も叶いまじきと存じ候。まずこのたびは御赦(ゆる)し候て御登りあり。

  加州の利家卿を彦九郎殿の烏帽子親に頼ませたまい、いよいよ睦まじく成りたまいて九戸退治の御相談ありたきことにて候と諌(いさ)めたまへば、実にもと言いしれぬ体にて通り給ふ。

  この時加州よりの御使者内堀四郎兵衛を先に立て、鷹五十居・馬百疋を牽(ひ)かせ、越後・信濃を歴て碓氷峠を越え、鉢形(金沢城主前田利家が滞陣中であった)の陣所に着きたまい、利家卿に対面あり。

  信直公には松山に休息ありて馬・鷹を休め、翌日小田原の御陣に参じたまう。前夜鷹に餌違いして残らず落としけり、馬ばかりを牽かせられ小田原に参向し、山中吉内をもって献じたまう所に、太閤の御陣に召され、御盃ならびに梨子地鞘(さや)の来国次の御脇差、唐織の御羽織を御自身に賜り、即ち着すべき由を命ぜらる。盛風記に「鷹は餌違いにて落ちて献ぜられず。ただし披露には及ばじと也。

  さて彦九郎とのを利家卿の烏帽子子となさせ給ひ、元服ありて利家卿より利の一字を譲らせたまうにより利直と名乗りたまう。利家卿は浅野長政に就て信直公の訴訟を申させたまうといへども、右京は信直公より先に登りて御朱印を賜りし上は、いま翻し候事なりがたく候えば、堪忍なく候へ。九戸逆心の由、早々本国へ下り退治すべし。もし九戸猛勢にて叶い難ければ小田原御陣相済の後、加勢を賜るべくの由、仰下されしかば、ありがたき由、御請あり。なお両家へは何分頼み入り候とて、信直公は下りたまいける。

  【頭註】国朝大業記に「天正十八年四月日信直公利直公(時に十五歳)御同道、小田原へ御出陣のみぎり、太閤殿下の命によりて前田利家を烏帽子親とならしめ、永く和親たるべきの御意を蒙り帰国す。同年七月信直公大森の旅館へ参向し、殿下より来国次の短刀に暑衣道服を添えてこれ賜り、累世本領を安堵すべきの由諭さる。同十九年九月蒲生氏郷の外姪を嫡子利直に娶(めと)り合わせ、向後信直を蒲生の麾(き)下に准ずへき旨下知せらる。(下略)
            (篤焉家訓)

 【解説】この記録は津軽為信に関する記述に比重はあるが、表題に関する部分についてかいつまんで言えば、天正十八年に豊臣秀吉による小田原征伐があり、利直は父信直に従って参陣した。陣中にて加賀金沢城主前田利家を烏帽子親として元服。この時烏帽子親より利の字を贈られて利直を名乗ったというもの。『寛政重修諸家譜』は初名を晴直と伝える。

  ちなみに利直は「天正四(一五七六)年に出生、慶長四(一五九九)年に遺領を継ぎ、寛永九(一六三二)年八月死去、享年五十七」(『寛政重修諸家譜』)、三戸三光庵(現・南部町・三光寺)に埋葬(廟所は青森県重宝指定)されたが、遺骨は元禄九(一六九六)年に盛岡東禅寺に改葬されている。

  小田原にての元服は豊臣秀吉の命による(篤焉家訓)とする説があるほか、「祐清私記」利直公御事には、以前からの親交によってと見える。また、参陣は「信直公ばかり御出陣」とする説を併記。同説に従えば小田原での元服はあり得ない。

  これに対して元服の場所は定かでないが、「七歳の御時(註・天正十年)加賀大納言菅原利家公を請て元服(具足烏帽子の父)親と頼み利の字を賜り利直と申也、」とする説も見える。「聞老遺事」利直譜では小田原には利直が父信直の陣代として参陣とある。

  利直の末裔の現当主は利昭氏。明治以降の歴代を見ると利剛・利恭・利祥・利淳・利英(利昭氏父君)と続く。この場合「利」字を歴代通字という。

  次に通字は平安時代頃から始まったとされるが、その変遷を概観する。

   ○兄弟通字

  兄弟通字とは兄弟で名の内一字共有にしているもの。藤原摂関家の系図で例示すれば、冬嗣の子弟に見えるのが初見。長男を長良。次男以下は良房・良方・良輔・良相・良門・良仁・良世と良字で統一する。家督を継いだ良房の子弟は、長男国経以下、遠経・基経・経高・弘経・清経。

  また良房の家督を継いだ基経の子弟は時平・兼平・仲平・忠平・良平と、各々経・平を通字(『尊卑分脈』)としている。庶流に目を転じて冬嗣の三男良方の子弟を見ると、当興・当佐・当蔭と当の字を用い、同四男良輔の子弟は四門・四友・四道・四数・四盛・四時、と四字を通字としていた(『尊卑分脈』)ことなどが知られる。

   ○父祖通字

  父祖通字とは父の一字を子が、あるいは祖父の一字を孫が受け継ぐもの。兄弟通字に次いで平安時代後期から見えるという。また『尊卑分脈』により、藤原道長の子孫に例を見ると、兼家−道長−頼通−師実−師通−忠実−忠通。忠通の長男を基実といい、その嗣子は基通。忠通の二男は兼実、その嗣子は良通と見える。歴代通字に至る過度的な現象とされている。

   ○歴代通字

  通字の歴史は父祖通字という過度的な時代を歴て歴代通字が流行する。南部家は甲斐源氏武田家の庶流と伝え、家紋は双鶴紋のほか武田菱(割菱紋)を使用。潜在的には信の字を通字とするが、武田の歴代を見ると、逸見清光−武田信義−信政−信時−信綱−信宗−信武−信成−信春−信満−信重−信守−信昌−信縄−信虎−晴信(信玄)。

  晴信の晴字は将軍足利義晴の諱字拝領によるものと伝える。

    ○南部家の通字信字

  南部家は甲斐源氏武田家の庶流と伝え信字を通字としていたことは既述の通りである。その初見は十一代信長に見るが、実は通字として見えるのは二十代信時(十六代助政二男、甥通継の跡を相続)から。その跡を信義−政康(実は信義弟)安信−晴政(『篤焉家訓』所収南部系図は、初名時政に作る)−晴継−信直(安信の二男高信の嫡男)−利直(初名晴直、利政を名乗ったとする説もあるが未詳)−重直と続くが、信字通字は安信の代まで。晴政の晴字は、甲斐の武田晴信の諱の一字を所望し名乗ったと伝える(『参考諸家系図』一条系図)説もあるが、『後鑑』は「大館常興日記」を引いて天文八(一五三九)年に将軍足利義晴より一字拝領と伝える。その後信字を用いているのは二十九代重信の代から。

  しかし、重信の初名は重政。「信」の使用は武田氏庶流を意識した重信の代の復活ではなかろうか。八戸藩主家が信字を歴代通字としたのも三代通信(重信五男)以来のこと。結果として重信の末裔は嫡・庶流の別なく信字を通字としている。

    ○南部嫡家の通字利字

  重信以後の歴代を見ると、嗣子三十代行信の跡、実信(嫡子で死去)、三十一代信恩(行信二男、初久信)−利幹(実弟、初信応、次幹信)−利視(信恩子、初信賀、次信視)−利雄(利幹子、信貞)−利正(利視子、初信由)−利敬(初信敬)−利用−利済と相続。利済は利雄の廃嫡利謹(初崇信)の遺児。その跡は利義、弟利剛と続く。

  ちなみに、利幹については不明ながら、利視・利雄・利正まで三代の利字は、前田利興(吉徳)・利安(重熈)・利有(治脩)から贈られたもの。利敬以降の利字通字は、前田家より永代使用の了解を得たと記録する。前田家歴代の( )内の名は将軍家からの一字拝領名である。

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